11/22/2021
11/19/2021
19.Novembre
あたらしい絵本「ダーラナのひ」が無事にできあがった。
編集は偕成社の丸本智也さん、デザインはtentoの漆原悠一さん。
素晴らしいチームだった。頼りまくり。ありがとうございました。
編集は偕成社の丸本智也さん、デザインはtentoの漆原悠一さん。
素晴らしいチームだった。頼りまくり。ありがとうございました。
果たして本屋さんに置いてもらえてるのか現実感はないけど、お見かけたとき手にとってめくっていただけたら嬉しい。
11/13/2021
自転がはじまる。途中の劇場
突然だけど、人形劇をやってみたい。
思い立ったらはじめてみようと。
nakaban×山口洋佑×川内有緒というこのチーム。面白そうでしょう?
はじめてみたら人形劇が最終到達点になるのか、それすらもわからないこのわくわく感w
このプロジェクトは続きもので、まずは楽しいopen studio的展示を。
どなたさまもお楽しみください。
「自転がはじまる。途中の劇場 and then, the rotation begins at the theater of on-going」
東京都渋谷区恵比寿1-7-6陸中ビル1F
11.23 tue - 29 mon 2021
14:00-19:00
企画運営:MOVE Art Manegement
宣伝美術:高野美緒子
11/10/2021
グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル
カバーの絵を担当させていただいた。
原著は"Grandma Gatewood's Walk"
ハイカーにとってバイブル的な書。
67歳になってアパラチアン・トレイル(2050マイル)を歩いてみようと思い立ち、
ありえない軽装備で踏破してしまった伝説のおば様の本である。
*
「グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル」
ベン・モンゴメリ著 浜本 マヤ訳
尾崎行欧デザイン事務所:装丁
山と渓谷社 刊
2021.11.17発売 2,640円
11/08/2021
11/01/2021
1. Novembre
トークイベントの機会は滅多にないけれど、この11月は高松と広島の2カ所でお話をさせていただくことに。
11/7(日) 「画家nakabanはときどき絵本作家?」
高松市図書館主催 サンクリスタル高松 3階 視聴覚ホール 13:30~15:00
与えられたお題は絵本。壮大な絵本の世界について語る資格はないので、自分の絵本制作活動を振り返ってみようかと。
11/20(土) 「そして誰も語らなくなった?」
詩人アーサー・ビナードと画家 nakabanにヒロシマのこれからをきく
F・C・L ひろしま主催 広島市留学生会館 13:30~16:30
申し込み先 090-2866-5422(佐々木) ←会期後はお電話番号削除予定。
申し込み先 090-2866-5422(佐々木) ←会期後はお電話番号削除予定。
アーサー・ビナードさんと対談。
このテーマついて話すことも滅多にないのでこの機会に。
10/26/2021
26.Octobre
燕が南に飛んでいくのを眺めていた。
空中に描く孤が多層の波になって、こちらにも旅立ち前の高揚感が伝わってくる。
わたしの代わりに南に飛んでいく燕(うらやましー)。
でも燕たちが去り、わたしの視野から消えてしまうと、その眺めているわたしと燕たちとの繋がりの糸は絶たれてしまう。
鳥は世界の方々に星や風のことづてを伝え、だんご虫は黙って地面を作り続けている 。
じゃあ、「ひと」である自分の担当はなにか?
浅く眠りながら考えていたが、ふと、「きちんとさせること」という言葉が思い浮かんだ。
ほう、きちんとさせる〜。
絵を描くときは一種の画面という箱庭の中でそれをしているような気がする。
じゃあ、「ひと」である自分の担当はなにか?
浅く眠りながら考えていたが、ふと、「きちんとさせること」という言葉が思い浮かんだ。
ほう、きちんとさせる〜。
あんた暮らし系ですか?
いえいえ…
むろん、鳥やだんご虫の特性すらをひとは持っている。
自分の意識は目に映る風景にひとしいからで、だれもがなんでも出来るからだ。
あるいはこうも考えられる…いま、身動きのできないわたしの代わりに、大きな領域や小さな領域をかけ廻り、遊んでくれているのが鳥や虫たちであるのかもしれない、と。 (そう思うことによって視野を拡げようとするわたしの無駄な努力w)
いえいえ…
むろん、鳥やだんご虫の特性すらをひとは持っている。
自分の意識は目に映る風景にひとしいからで、だれもがなんでも出来るからだ。
あるいはこうも考えられる…いま、身動きのできないわたしの代わりに、大きな領域や小さな領域をかけ廻り、遊んでくれているのが鳥や虫たちであるのかもしれない、と。 (そう思うことによって視野を拡げようとするわたしの無駄な努力w)
しかし、きちんとさせるというのはなかなかどうして「ひと」だけにおおきく付与された特性ではないか。
(実際は猫が毛繕いに時間を割くように、他の生き物もけっこうきちんとさせている)
きちんとさせるということは深くて、それは、誰もみていないところでそれをするということに関係していて、高貴な遊びなのである。
きちんとさせるときには注意したいことがある、整えるなどと言いつつ他の存在を傷つけたり憎む気持ちを持っていてはいけない。(つまり、ゴミ掃除の時にそのゴミを憎むなど)
行為の透明度が鈍るからである。
(実際は猫が毛繕いに時間を割くように、他の生き物もけっこうきちんとさせている)
きちんとさせるということは深くて、それは、誰もみていないところでそれをするということに関係していて、高貴な遊びなのである。
きちんとさせるときには注意したいことがある、整えるなどと言いつつ他の存在を傷つけたり憎む気持ちを持っていてはいけない。(つまり、ゴミ掃除の時にそのゴミを憎むなど)
行為の透明度が鈍るからである。
だから高貴という言葉を使った。
絵を描くときは一種の画面という箱庭の中でそれをしているような気がする。
とくに油彩には失敗を更新しながら整えるという一面があるが、そのときに失敗を憎まないことが同じように大事で、失敗したときにチッと舌打ちをするような状態だったら、わたしは描くのをやめるようにしている。
その箱庭の中ですることは箱庭の外部に影響が及びそうな気がして、ひそかにこわいのである。 もしかしたら長い間飾っていただくかもしれない絵だと思うと尚更である。
描くことに何かの目的とか望みがあるとするならば、品よくありたいというものがいつも第一で、そういうことって、結局自分が気取った態度を取りたいだけなのかなあ、と考えていたが、寝ぼけながら思い浮かんだ「きちんと説」をかんがみるに、ここにはもっと深い何かがあるのではないかと思うようになった。 まあはっきりとしたことは見えないんだけど。
ある友人はガラが悪くて品がいいというのが一番良き態度であると言っている。
その友人の店で年末に展示します。
その箱庭の中ですることは箱庭の外部に影響が及びそうな気がして、ひそかにこわいのである。 もしかしたら長い間飾っていただくかもしれない絵だと思うと尚更である。
描くことに何かの目的とか望みがあるとするならば、品よくありたいというものがいつも第一で、そういうことって、結局自分が気取った態度を取りたいだけなのかなあ、と考えていたが、寝ぼけながら思い浮かんだ「きちんと説」をかんがみるに、ここにはもっと深い何かがあるのではないかと思うようになった。 まあはっきりとしたことは見えないんだけど。
ある友人はガラが悪くて品がいいというのが一番良き態度であると言っている。
その友人の店で年末に展示します。
10/09/2021
10/07/2021
niti-guのRoll On
屋久島の宮之浦フェリー港にあるお店 niti-gu (日具)のオリジナルのRoll Onである。
である、ってえらそうに言いながら、わたしはRoll Onというモノがなんなのか最近まで知らなかったのだけど。
というか実は今も理解していない。
素肌に転がし、素敵な香気を発生させる装置のようだ(合ってる?)。
ユーカリ系の野性味と洗練味の合わさった一品。最初は柑橘系かと思ったけれど。
このラベルに使われている図版はniti-guのリニューアルの際に制作させていただいた版画「川を遡(さかのぼ)る子」が元になっており、お店の看板にも使われている。
10/05/2021
4.Octobre
ひとが会話するときの唾は2メートル飛ぶようになっているらしい。
このことから、まずマスクというものが必須になり、それから他人との距離を2メートル取りなさいとか、
飲食店の切符売り場のようなアクリル板とか、黙食?とか自宅勤務とかをやるようになった。
そもそも、自分たちの身体が唾(情報)が2メートル飛ぶデザインで設定されているのはなぜなのか?
という大きな問いからなんだか人類全体が目を逸らし続けているような気が、わたしはする。
しかし今はそういうのはとにかく怖いから触れたくないと。
この奇妙なルールが流行する前は、ひとは他者の唾のみならず、さまざまな季節を知らせる自然界からの粒子、
摂取しすぎたら危険な毒物の破片、などなど、つまり環境からのさまざまな情報をシャワーのように浴びながら、
瞬間ごとに自分と環境との関係をアップデートしてきたのだ。
たしかに唾が飛ぶとかいうのは不潔なイメージがあるのかもしれないが、やはりそれは生き物として必要な仕組みの一部だったのだ。
動物の、例えば猫とかは子ども猫を舐めまくっているし、ひとの赤ちゃんも色々なものを舐めて学習するではないか。
しかし今はそういうのはとにかく怖いから触れたくないと。
感染症の怖さにパニックとなり自分の周囲を何もかもを嫌っているわけである。
そのようなことをやればやるほど、アップデートが滞ることによって、遷移し続ける世界の「今」から乗り遅れることになり、
そのようなことをやればやるほど、アップデートが滞ることによって、遷移し続ける世界の「今」から乗り遅れることになり、
自分の生き物としての力は衰えていく一方なのではないだろうか。
ところで、自分はどこまでが自分の領域なのかと考えたことはないだろうか?
わたしはいつもそんなことばかり考えている。
「それは自分の皮膚の内側に決まっている」
まず、この答えが返ってきそうだ。
では、自分の着る服はどうか?
「もしかしたらそれも自分のうちに含めてもいいかもしれない」
では、自分の周りの大切な本や道具のある空間はどうか?
自分の作る料理や撮る写真、絵はどうだろうか。
眺める景色とは、主観的に見えるものであるが、どうだろうか。いったいどこまでが自分だろうか。
などと進めていって、なんとなく、わたし個人は何も注意を環境に向けない状態であっても、
自分の周囲2メートル、合計4メートルの球の内側は常に自分の一部である、ような気がするのだ。
(欲張り?でも本当は見える風景が全部自分だと思いたい)
だから、旅をすると自分の周囲4メートルが新しいものに触れて置き換わっていって、
旅先で色々なものに出会って出発点に戻って来たときには、自分の一部がどこか生まれ変わってしまっているというような感覚をおぼえるのではないか。
つまり、ここで何が言いたいかというと、ウィルスの件で自分の周りが全て汚れているのではないかと恐れて、「嫌う」ということは、
無意識に自分自身をも呪い続けているような、気づかないうちに自らの魂を萎縮させている状態であるのではないかと思うのだ。
意識という視点から眺めると、それは大きな危機ではないかという心配を感じてしまうのである。
この世界の現状はルール過剰となる一方で、個人はより小さな型の中に部品のように押し込められようとしているのはもはや明白で、
でもこの状況だったら仕方がない、とみんな あきらめている?
そこから抜け出すにはどうしたらいいのだろう、とそろそろ考えるときだ。
このような話はすんなりわかってもらえないと思うけど、自分的にはここはかなりこだわりたいと思っているのだ。
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