5/31/2020

31.Mai





L'ancienne serre est restée intacte.

町外れのこの一角の、小さな階段を降りた中庭に、旧い市の共同温室があった
苔に覆われた木々に見守られ、安心しきったかのようにその温室は眠り続けていた
(通行人は誰もその温室には興味を示さないで、チラッと見ただけでそこを通り過ぎる…)

その旧さにもかかわらず、温室の硝子はひとつも割れていなかった
つまりそこだけは雹にも降られることはなかったし そこに石を投じようとする者もいなかった

擬似的な熱帯の夜気のひそかな蓄積 それと外部の空気とのあきらかな断絶が
その温室にどこか触れ難い特別な印象を与えていた


5/29/2020

29.Mai


マスクを着けるとわたしは注意散漫になるようで、十字路で二度ほど車にはねられそうになってしまった。
それにマスクをしたまま料理や工作をしていて刃物で手を切りそうになったこともまた一度や二度ではない。

マスク着用という口鼻塞ぎが五感の他の部分に制限的な影響を与えるのは興味深い。
しかしわたしにとってはそういう微細なことであれど感覚の制限は一大事なのである。
浮かぶアイデアも捕まえられなくなるのである。

なので、マスクをつけない暮らし。
その方向で生きていく可能性という選択肢を採ることを視野に据えることもやぶさかではないのではないかと考えている。
まあシンプルに言えば、自分の吐く二酸化炭素をあまり吸いたくないだけかもしれない。だけど、それによって感覚の疎外が起こるのはやはり大いに予想できることである。社会は個人に生命にとっての呼吸という権利の重大問題をコンプライアンスとして押し付けてしまって良いのだろうか。そのような疑問が街を行き交う人びとを見ながらふつふつと浮かんでくる。
繰り返すがマスクは五感に制限を与えると思う。さらに言えばそれは直感、霊感にも影響を与える。宇宙の神秘、聖なる呼吸の流れをマスクというものが堰き止めるからだ。知らんけど。

わたしは才能の枯渇をマスクのせいにしたくない。アイデアというのは散歩したり買い物したり部屋の外を歩いているときに降りてくるものなんである。

とはいえ、このご時世でこのような態度でいるのはひとさまの視線が痛いものである。
このままでは都市で生きにくくなりそうだ。
それも時代の変化で良い機会かもしれず、仕事場を少し都市部から離れたところに引っ越してみようかしら…と夢想している。

5/27/2020

5/23/2020

5/20/2020

「そにろき」さん



昨日は呉の丘の「そにろき」に絵を届けに。
ここしばらくの霖雨もあがり眩い陽光で海も木々もきらきら。
見よ、これほどに自由が具現化されたものを私は知らない。
絵も気に入ってもらえ、ほっと一安心。
しばしお話をしながらもテントに揺れる花や木陰の織りなす影絵劇がどうにも気にかかる。笑
そして忘れられないおいしい珈琲の味。

タンジェのカフェハファ、クレのソニロキ。
檸檬がたわわに実りますように。


ココは焙煎のお店でありカフェでは無いのでどうぞご注意を。
でも優しいお二人は試飲の珈琲を出してくれることでしょう。


5/17/2020

17.Mai



Sim, sou um dos sonhadores.

5/14/2020

Salle de peinture













実作業のものばかりの作業場。
ちょっと息苦しくなって、片付けた。
そして狭い画室の真ん中に無理やりドーンとモノを飾るテーブルを置いた。
モノは毎日動かすルールだ。
ここはお店でもないのに誰も呼ばないのに「飾る」
ということは神に捧げるということだろうか。
あるいは傲慢な自己満足?
まあ、清と俗は紙一重だろうから。
いや、なんのことはない。正解を言えば制作になんらかの影響が出ることを期待しているだけだ。
しかし結局のところ眺めて好きなのは自分で使い古した道具のような気がする。

絵を飾る人がいる。
その人はきっと物事の一面を見て不要不急と切り捨てない人だ(とほめておかなければ)。
絵は一つの窓のような装置だとよく言われる。
その人の部屋に時間をかけてゆっくり馴染んでいく架空の窓。
絵はいろいろなモノや日々の音響、光線、居る人の思考と干渉をして変化していく。
そのものの経年変化もある。
「見え」は変わっていく。

5/08/2020

8.Mai




Vue panoramique sur la baie

5/04/2020

4.Mai



La Gare


5/01/2020

1.Mai


Le temps calme