油絵を描いている。
本の挿絵の仕事なんだけど、とても自由にやらせてもらえている。
クレープのように積み重なっていく絵。
油絵は絵の具の塗り重ね作業の連続。でも不思議と飽きないのは何故だろう。
その飽きない理由のひとつにこういうことがある。
ひとつ色を塗り重ねるとその下に隠れた色の影響で見え方の印象が大いに違ってくる面白さがあるということ。
一見の平面上ではほぼ同じ見た目なのに心で感じる所は大きく違う。
それは思いっきりミクロの視点になれば結局は原子の構造がすかすかであるためである。
光線は隠れた色の層にもわずかではあるが確実に届いて反射している。
そう説明しておきながらそれだけではないような気もする。
メロンの絵を塗りつぶしてみかんの絵をかけばそれを見るひとはメロン風味のみかんの味を感じる。…かどうかは判らないがそれに似たことはあるだろう。人の無意識はおそろしい。
そのようなことがあるので油絵というものは特に人の無意識に働きかける絵なのだと思う。
見る人が気づいても気づかなくてもそれでよい。
描くほうの人としては全部みられているというか、でも誰に?
誰かに何かを試されるような全くわけのわからない状態になる。
だから僕はそれが怖いような気がしてそろそろと一つ一つ丁寧に塗って行く。
でも結局はそれは逆効果で立ち止まってその絵を破いてしまう。
絵というものでは丁寧であるということが必ずしも良くなくて、むしろ悪い。
これをしていてもあんまりいい絵にならないのだ。何故か。
ひとはこの丁寧であるということに安住してしまうからだ。
それは絵にいちばん大切なパッションを摩耗させる。
そして丁寧な作品を作ってしまうことによってその丁寧さを誰かに押し付けてしまうことになってしまうからだ。
ジャズがスウィングをしなければ意味が無いのと同様、絵を描く時にはこの夏の暑ささえも丸呑みして涼しくいられるようなパッションがなくてはする意味が無い。
(ただこのようなことを書く言い訳として、丁寧であろうとすることにパッションが発生し、持続するならばそれはすごいことだと思う)
ではそのパッションが欲しくなる。
それはどこにあるのか。
どこに行ったら買えるのか。笑
ドアの外に飛び出しても世界のどこにも売ってないし落ちて無い。
どうやら絵を描くときのストロークの一つ一つからちいさなパッションを得て打ち返すという方法しかないらしい。音楽だったらタッチだし、料理だったら食材から立ち上る香り。
なんだかとてもミニマルで地味だ。
けれどもそこは根拠の無い期待が生まれて来ては消える場所だ。
とても「めくるめいて」いてそれを丘のような所から面白く眺めるのが自分なのだ。
結果へのもくろみはいつしか忘れてしまう。