わわわっと。
こもって絵を描いていたらもうこんな日こんな時間に。
個人的な習作なので何の締め切りもない。
なのに焦燥感が、とてもある。
でも掴んだ。少しだけ次のところに行く鍵を。
ほんの少しだけだ。
鍵は掴んでもすり落ちてしまうだろうか。
少しの勇気を足して絵具に混ぜるんだ。
休憩中はコーヒーにも混ぜろ。
次のところに行けばその鍵は潔く捨てよう。
持っているものは自分という存在だけ。
自分のあらゆる動きをしっかりと見ること。
絵はそれとイコールの存在だ。
とても単純だ。
勇気が要る。
12/30/2019
12/20/2019
20. dec
最近、絵具が楽しい。
チューブから出した絵具に触れずして触っているような感覚があって、その性質の違いを味わって描けるようになった(今頃かよ)
絵具というものは先ず「色」だ、という先入観があって、抽象的に見てしまう。なので実際のフィジカルな顔料と油の練り物であるということを意識しないでこれまでやってきたような気がする。
メーカーによって結構手触りが違うのだ。butteryと表現するそうだがバターのような滑らかな筆触の絵具は天国にいるかのような幸せになれる。でも硬い絵具を固い筆でザクザクと潰すのも嫌いじゃない。
そういえば特別な鮮やかさのある色がいくつかあって、それらの絵具はwilliamsburgというメーカーのコバルト系など高価なものを使っていて大切にチマチマ使っている。虎屋のようかんを切るような感じ。そのせいもあるがそういう特別色ってワンポイント使用なのでチューブの残量があまり減らない。もっと使った方がいいと思う。
たまには大胆に背景の大面に鮮やか色を使ってみるのもいいかもしれないな。
今は黒の絵具がほしい。本当の黒というのも鮮やかさとは無縁のようでいて実は鮮やかさが必要なのではないだろうか。なかなか良い絵具が見つからない。黒ではなく、あるメーカーのカッセルアースやペリレングリーンなどの方が黒を感じたりする。黒を作るために濃いブルーとアンバーを混ぜたりもする。良い絵具を探している。
12/15/2019
「岐路の前にいる君たちに」
鷲田清一さんの式辞集「岐路の前にいる君たちに」。
表紙の絵を描かせていただいた。
見晴らしのよい場所に立つために(しかしそこすらも通過点でしかなく)歩くひとを。
「君たちへ」ではなく「君たちに」。
一文字違うだけで本を実際に手渡す感じがする。表紙の絵を描かせていただいた。
見晴らしのよい場所に立つために(しかしそこすらも通過点でしかなく)歩くひとを。
「岐路」って大人になって死ぬまで続くので、一生ものの本になるかも。
本屋さんに並ぶのは19日頃。
朝日出版社刊
装丁:鈴木千佳子
12/12/2019
糸杉とねずみのハンカチ
ツイルのラフな透け感もうつくしい「CYPRÈS」は荒野に立つ糸杉の絵を図案に。
ピクニックに持っていくサンドイッチを包むのにいかがだろうか?
*
そして、あざやかに黄色い「USE IT OR LOSE IT」は干支のねずみをテーマにしたハンカチ。
自分で言うのもなんだけどとても可愛い。
それでいてコラージュの紙のモノ感まで再現。
トムとジェリー世代なのでチーズが主張している。
swimmie銀座店ほか、お取り扱い店で手にとっていただけたら嬉しい。
12/09/2019
12/08/2019
8. dec
一昨日のこと。
Macから音楽を聴こうと再生をしたら、いつものピアノ曲が違って聴こえた。
とにかく音程が異様に低く、それも歪んで再生されているのだ。
「おやや。スピーカーがとうとう壊れてしまったのか」
と思いipadの音源を鳴らす。
おかしい。これもいびつに聴こえる。
CDPを再生して、ようやく壊れているのが自分の耳だということがわかった(笑えない)。
今は問題が収まったから書くのであるが、ピアノ曲は調がわからなくなるほど歪んで聴こえ、音階が不揃い。ほぼ、シェーンベルクの音楽のように無調。
中域の和音は口琴の音のように跳ねて、その情緒を失っている。
そして低域に至ってはほぼ聴こえない…。
歌ものを聴いてみた。
一人で歌っているはずのセザリア・エヴォラがおかしな音程でハモっている。
とにかく違う惑星で聴く音楽のようなのである。
これは、音楽がもう楽しめなくなるのかーと悲しくなった。
しかしあることに気がついた。自分で歌ってみるとどうも普通に聴こえる。
そのほか全ての音は明瞭に聴こえて、何も問題ない(ように思う)。
無意識に自分が合わせて狂わせた音程で歌っているのか、とも疑ったが、どうやら機械から出る音だけが自分にはおかしく聴こえるようなのだ。(そして、医者からもそういうことがあるのだと言われた)
病院に行き診てもらう。あれこれの検査の後、結局ストレスと睡眠不足という診断がくだされた。自分では楽しくすごしており、ストレスフルな生活をしているつもりはない、と言ったが、それでも身体には影響が出てしまうのだ、と。
そのとき興味深いことを聞いた。心身の傷とは別の、自分の聴こえの認識的な部分のことである。
認識の変化一つで音楽なども違って聴こえるのだと。
違う惑星で聴く音楽のようだ、と書いたがこれも音階の中の音程の、本当の意味での不均質であること、とか歌の倍音的なハモりなどは今まで関心がなかったから、それがたとえ在ったのだとしても、さほど気にかけて居なかったのであって、それがこの「小事件」がきっかけで気になりはじめたのだ、とも言える。最初に出会う違和というものは大きく拡張されて感じるものである。
その後、原因を知って安心したのか「わたしの音程」は少しずつ戻ってきた。
今は街をながれるクリスマスソングを普通に聴いて胸をなで下ろしている。
しかし自分のイメージする音よりは低く、とろみを加えたように聴こえているままだ。
それが正しく聴こえている、という確証もないし、症状(?)が現れる以前の今までの聴こえが正しかったのだという確証もまたない。
ただ、音楽が聴ける、音楽がある、ということのありがたみはより大きくなったと思う。
12/04/2019
11月のおわりと12月のはじめ、松本で。
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