10/29/2022

「風景のレシピ」

 


創元社noteでの「風景のレシピ」はNo, 22まで増えた。
ブオナッシージ氏の「パスタ法典」など、1000を超えるレシピ集はたくさんあるので、まだまだ続くかも(?)。

今回upの鳩小屋について。

鳩小屋(colombier, pigeonnier)とは地中海沿岸(エジプトなどアフリカ側起源か?)からヨーロッパ一帯に現在も残る建物。
食肉用、糞を利用した堆肥用、そして伝書鳩用、という風に利用された、とても愛らしい鳩のための建物。八角形、円形、木造のやぐら、ギリシャの紋様の入った四角い塔、など国ごとにさまざまでとても面白い。写真集があったら欲しいくらいだ。驚いたのが、先日のロマネスク展のために描いたイタリアの円筒形の教会建築にかなり似ている鳩小屋があったこと。

この鳩小屋、現在そこに居住できるようにしたり宿に改装した物件もあるらしい。

10/22/2022

10/18/2022

18.Octobre



予防効果があるかどうかの製品テストをせずにリリースされた、ということで、コロナお注射の件が欧州でようやく社会的な問題となっている。

では、製薬会社は他に何をテストしなかったのか。


Dr. Paul Alexanderのサブスタックから引用

***

ファイザー社と、モデルナ社も同様に

-他の一般的に使用されている医薬品やワクチンとの重大な薬物相互作用があるかどうかを検証していない。

-宿主に遺伝子変異があるかどうかのテストはしていない。

-「ワクチン」が全身に広がるのか、それとも注射部位に限定されたままなのかを検証していない。

-「ブースター」が実際に有益であるかどうかをテストしていない(彼らはそれを裏付けるデータもなく、単に2回投与の初期プロトコルとしてそう述べている)。

-非活性成分が問題を起こすかどうかをテストしていない(これらは通常の賦形剤ではなく、プラセボ群のデータのいくつかは、これらも問題を起こしていたことを示唆している) 

-「非活性」成分が問題を起こすかどうかをテストしていない。

-「ワクチン」が接種者から伝達されるかどうかをテストしていない。

-宿主からのワクチンの代謝的除去、すなわち宿主内でどれくらいの期間活性が保たれるかについてテストしていない。

-本質的にほとんど何でも合格させるような製品仕様を提案した。

-母集団に既に存在する顕著な自然免疫を考慮しなかった。

-臨床試験で疑惑のあることが知られていることについては米国外の国々で研究の大半を行った(特にブラジルで)。

-安定性に関するデータがほとんどない。


***

わたしが眺めているところだと、この「ない」の行方の多くが悪い作用で顕現しているような気がするのだが。

さて、こんなものを、何も知らない子どもたちに打たせるのか?(書類にサインができる大人は自己責任だが、大人が子の接種についてサインするのか、という問題)

立ち止まって考える時期に差し掛かっていると思う。

10/15/2022

15.Octobre



NyaboSseboと神田智子さんと倉敷郊外の小学校二か所でコンサートだった。
春から続いていたこの小学校公演のシリーズもひとまず終了。
正味たった一時間の出会いであり、子どもたちもすぐに忘れてしまうかも。
でも大人になったらふと思い出してくれるような気がする。
とても気分良く旅が終わって、やってよかった。




 

10/13/2022

13, Octobre

金沢で行ったTentopathieは、音楽家と画家が大量のツールを現場に投入して、建築家が大きなテントを建ててくれて、それでいてたった一人の客の為のパフォーマンス、というとんでもない企画だ。

ひとの体験、記憶とは何か。偶然とは、残響とはどういうことか、というようなことを考えていて、ひとりのために、という場を作ることに行き着いた。

-pathie である。切るのでも飲ませるのでも揉むのでもなく少しだけ心を自由にするという芸術療法。芸術家がついに怪しげで危なげな領域に手を出したのだろうか。

いや、そうではなくて、自由にするということが、ひとつの治癒と考えるならば、芸術はやっぱり治癒に関係する。

ひとは自由になったとき、世界と向き合い始め、対象と双方向となる。するとそのひとから恐怖と往々にして呼ばれる感情が少しづつ目減りして、だんだんと元気になる。

双方向になるということは、逆説的なことだが、自分も相手も消えてしまうということではないのかと考えている。ただ残るものは、四散した声のようなものだけ。

それで虚しくなるのではなく、むしろ面白がるのが素敵だと思う。その声を何者かが聞いている、という根拠のない予感を感じつづけたい。


10/08/2022

8.Octobre



金沢に来ている。今日は市役所で「Tentopathie」。

そして明日は白鷺美術で「暗闇に手をひらく」。

雨はぱらつくけど良い秋の気配がそこかしこに。来る前に、金沢は寒いから気をつけてと連絡をもらった。わたしたちは気温の、寒い寒くないで判断しがちだけど、そのほかにも空気の肌触りとか、土地の違いで変わるように思える。

10/05/2022

5.Octobre

 




先日は NyaboSsebo & nakaban の学校でのライブだった。
場所は三浦半島の先端の小学校。
しとしとと秋雨の降る、まぐろの看板でいっぱいの港町。

10/02/2022

石に触れる日々

 

一水寮の展示風景はこんな感じ。
金沢百枝先生の蔵書の「ゾディアック叢書」とコラボレーション。

展示は4日まで。

西洋やキリスト教という祈りの世界への憧れは、そこに暮らしていないというコンプレックスによる「構え」になってしまい、絵を描くわたしの心はぎこちなくなる。過去作であんなに西洋風の街並みをたくさん描いておいて、それでもなのかと言われそうだけど本当だ。
表現者として西洋のある種のちゃんとしていて素敵なものの虎の威を借るひとになっていないか?と自己批判してしまうのだ。祈りの心を単なる演出に堕してしまうような怖さのこととか。

でも不思議なことにこの数年、ロマネスクのアートに触れることを通してそういう構えは消えてきた。何が大切なのかが少しづつ見えてきて、ほんとうに心が軽やかになったので、やっぱり西洋というものを権威づけしたり誤解を自分で勝手に作り出していたのだろうと思う。

この展示の制作期間中は、それでは権威の有害性とはなになのか、といっちょうまえに考えたりもして、やはりいろいろと思ったことはあって、ここには書かないけれど、そんな時に権威の世界の偉い人が続けてお亡くなりになったりもして、なんだかますます意味ありげで考えさせられた。

わたしは「ロマネスク」を権威への卑屈さや我欲という、生きるためには不必要な感情のはびこらなかった時代の、でもなんでもありではなくて、ちゃんと建物や彫刻や壁画、タペストリーなどをつくった個人の哲学が伝統や宗教的感情と融合していて、やっぱり奇跡的な時代だったのだと思う。そのようなアートが 天蓋の下で共鳴していた時代。まあこれ希望的妄想も入っているのだけど…そう思ってわたしはそれを眺めているし惹き込まれている。「ロマネスク」をまだまだ知りたい、学んでいきたいと思う。