1/28/2024

28. Janvier

 




このところ冬が本気を出している。
寒いので暖をとるためなんでも燃やしている。

庭の枝、古畳、不要な家具、amazonの箱、竹など。(特殊なロケットストーブで超高温になる)
六角形のはオガライトという燃料。

市に回収してもらうごみは大幅に減り、包装のプラスチックがほとんどを占めている。

(ストーブは高温でプラスチックも燃えるらしいが、やはり抵抗がある…)

よく考えてみたら、ほぼ、ものを買うとプラスチックが付いてくるという生活だ。

毒入り菓子のグリコ森永事件の前はそうではなかった。犯人は捕まっていないし、不思議な事件だった。



次の日にストーブを開けると灰ができている。

この前まで生き物だったのに、ミネラルになってしまいましたなあ、などと思いながら、お外にばら撒く。

ストーブの調子が、酸素に触れた有機物が灰になり、さらにその灰の粒までも燃えるのでだいぶ量が減ってしまう。

その逆に炭がところどころに残る時もある。それは有機物が酸素と「出逢いはぐれた」不完全燃焼の結果。

この炭で古代人のように絵が描ける。木炭を作るために柳の木も育てている。
柳の枝をアルミホイルで包んで、料理炉の中に入れておけばかくじつに木炭棒ができるはず。

炭は多孔質で微生物の棲家になるので土に混ぜ込んだりすると良いと聞く。

炭は1グラム300平米の表面積を誇る。


1グラム300平米。

1グラム300平米。

1グラム300平米。


信じられないが本当だ。
炭がにおい消しになったり湿気消しになったりするのも当然だ。全部持っていかれる。





1/20/2024

「ダーラナのひ」

 




「ダーラナ」は世界中の先住民をモデルにしている。

先住民は言葉だけが言葉ではなかった。
あらゆるものがコトの葉。歌と物語の紡ぎ糸だった。
今に生きるわたしも、それら万物と会話ができたら…という思いがあった。

わたしたちは生き物とは対話するが、それ以外の存在との会話は一方通行である。
たとえば、わたしが石と会話していたら。あるいは畑の土に手を突っ込んでニヤけていたら、ご近所の噂になる(既になっている?)。
でもそうすることで、わたしの中で何も起こらないわけではない、何かがそこにあるようだ。声が小さくてまだ聴こえないけれど。

わたしたちは石とも木とも、星とも、機械とも、なにより自分自身とも会話をしなくてはいけない。「双方向」であるということを思い出す必要があるのだ。
双方向であって初めて完成品のわたしになる。
版画を彫っていたとき、そう気付いたことを思い出す。

さまざまな出土品を彩っている紋様のように描き、彫り、歌って、踊らなくてはいけない。
これからそのような時代がやってくる。きっと。
「ダーラナのひ」はそのように、万物との会話形式で進められていく絵本だ。

この本を作っていた時期は2020年とかそのころであり、もうかなり昔のことのような気がするが社会はものすごい恐怖にのみこまれていた。
ひとびとは自分の周りを怖がりはじめ、敵視さえし始めた。
そういう状況に心が動じないはずのお年寄りが一番そうなっていたのがショックだった。

マスクは大切な「なにものか」とわたしたちを隔てる壁の象徴だったようにわたしには思えた。
自分の内と外を隔てることはどんなに悲しいことだろう。その重要性に気づかないことはどんなに悲しいことだろう。
わたしはマスク着用のような物理的な部分とは別の息苦しさを味わっていた。
もしわたしが一尾の魚であるならば、ばしゃばしゃと意外な方向から波をたてられ、どこか狭い水域に追いやられるような感じ。

こういう時代は嫌だな、と思ううちに、カウンターとして先ほど書いた万物との対話というテーマに行き着いたのだった。
万物と対話しながら、感覚を研ぎ澄ましながら暮らしていた存在はやはり先住民たちであろう。
リアルに血が繋がっていなくてもいいから、遠い祖先に思いを馳せた。(あるいは未来の子孫がそうなればいいのにと願ってもいる)

「焚き火の絵本」と紹介してもらっている、この本の物語の中で、火を熾(おこ)すための風はダーラナの息である。
ダーラナの呼吸と世界をめぐる風が混ざり合い、炎が燃えさかる。
そこからまた新たな風が生まれる。それを見てダーラナは嬉しくなって踊ってしまう。

息をするということは、自分が風そのものであるということを思い出すということ。
風が生まれる起点になるということ。
それがわたしたちがここにいる、という座標感覚であり、目に映る「風」景の本質なのではないか。

息はただ吸ってはくだけではない。息には音色がある。
自分は意識せずとも、無意識下の部分は外部との会話をフル回転で続けているのだ。
先住民がもう少し意識的にそうしていたように。
その会話のてんまつが息の音色になって風に変わっていく。

自由な先住民にとっての居場所は風に導かれる場所であった。
「ここでやすんでいきなさい」出会った風景が教えてくれた。
とりわけ気のよい場所は風の交差点だった、そのような特別な場所が聖地とされた。

でも、いつしか聖地に先住民はいなくなった。
歴史の常で権力を持つ集団があらわれ、追い出したか、滅ぼしたのだろうと思う。
あるいは自ら去ったか…
わたしは聖地をめぐる旅に憧れがある。でも、その上にあるであろう、どんなに立派な宗教施設をおとずれてもそれを拝むことはない。
職人や祈るひとたちに対して畏敬の念がないわけではないが、わたしは拝まない。あやからない。パリのノートルダム寺院でも出雲大社でも遠慮した。
権威をなるべく排除して、その場所ではるか昔にそこに憩っていたはずの先住民の笑顔と涙を想像していたいと思っている。

というわけでダーラナは野原が似合う子なのだ。
彼女は自分の故郷のかけらに次々と出逢いながら、とんぼと一緒に絵本の中で放浪している。

1/17/2024

17. Janvier

 




冷んやりした日々。ストーブから離れられない。見上げたら梅の花が咲いていた。息をとめているような景色の中でもゆっくりと時は進んでいる。
この梅の木に小鳥がとまってたりすると、古典的な日本画のようでしみじみいい。
こういうのでいいのだよ。

それからわたしは畑の初心者で、このブロッコリーが初めての収穫した作物だ。12月は何も植えなかったが、そろそろまた何か植えてみよう。

1/09/2024

燻製マルク Qunsei Marc







佐賀県、唐津、七山の「燻や」は歴史ある燻製屋さん。
このたび「燻や」に「燻製マルク Qunsei Marc」という新ブランドが立ち上がることになり、ロゴやパッケージの絵を担当させていただいた。
てかてかの包装紙を開けると小生のサインが。
箱の底以外全ての面に線画が入っている。全体は実物をご覧になってのお楽しみ。

スペイン好きな工場長で燻製!ということで燃えるような色の包装紙画にしたけど、この写真が青っぽい写りになってしまったので申し訳ない。

贈り物に自分用に最高なのでぜひご利用いただけたら。

1/05/2024

5. Janvier

 



熊本に来たぞ。

今日は広島から新幹線でいっぽん。
駅で降りて時間があるなら水道町まで歩く。
でも今日はトラムに乗る。
熊本のトラムの古いタイプは床が油の染み込んだ木のフローリング。
手作りの車内ライト、手書きレタリングの注意書き。全てがヴィンテージ。





今日5日と明日の夕方まで「さかむら」におります。
道具を持ってきたので、たとえば過去に買ってくださった絵の修復とかも可能なので、ぜひどうぞ。

1/01/2024