「ダーラナ」は世界中の先住民をモデルにしている。
先住民は言葉だけが言葉ではなかった。
あらゆるものがコトの葉。歌と物語の紡ぎ糸だった。
今に生きるわたしも、それら万物と会話ができたら…という思いがあった。
わたしたちは生き物とは対話するが、それ以外の存在との会話は一方通行である。
たとえば、わたしが石と会話していたら。あるいは畑の土に手を突っ込んでニヤけていたら、ご近所の噂になる(既になっている?)。
でもそうすることで、わたしの中で何も起こらないわけではない、何かがそこにあるようだ。声が小さくてまだ聴こえないけれど。
わたしたちは石とも木とも、星とも、機械とも、なにより自分自身とも会話をしなくてはいけない。「双方向」であるということを思い出す必要があるのだ。
双方向であって初めて完成品のわたしになる。
版画を彫っていたとき、そう気付いたことを思い出す。
さまざまな出土品を彩っている紋様のように描き、彫り、歌って、踊らなくてはいけない。
これからそのような時代がやってくる。きっと。
「ダーラナのひ」はそのように、万物との会話形式で進められていく絵本だ。
この本を作っていた時期は2020年とかそのころであり、もうかなり昔のことのような気がするが社会はものすごい恐怖にのみこまれていた。
ひとびとは自分の周りを怖がりはじめ、敵視さえし始めた。
そういう状況に心が動じないはずのお年寄りが一番そうなっていたのがショックだった。
マスクは大切な「なにものか」とわたしたちを隔てる壁の象徴だったようにわたしには思えた。
自分の内と外を隔てることはどんなに悲しいことだろう。その重要性に気づかないことはどんなに悲しいことだろう。
わたしはマスク着用のような物理的な部分とは別の息苦しさを味わっていた。
もしわたしが一尾の魚であるならば、ばしゃばしゃと意外な方向から波をたてられ、どこか狭い水域に追いやられるような感じ。
こういう時代は嫌だな、と思ううちに、カウンターとして先ほど書いた万物との対話というテーマに行き着いたのだった。
万物と対話しながら、感覚を研ぎ澄ましながら暮らしていた存在はやはり先住民たちであろう。
リアルに血が繋がっていなくてもいいから、遠い祖先に思いを馳せた。(あるいは未来の子孫がそうなればいいのにと願ってもいる)
「焚き火の絵本」と紹介してもらっている、この本の物語の中で、火を熾(おこ)すための風はダーラナの息である。
ダーラナの呼吸と世界をめぐる風が混ざり合い、炎が燃えさかる。
そこからまた新たな風が生まれる。それを見てダーラナは嬉しくなって踊ってしまう。
息をするということは、自分が風そのものであるということを思い出すということ。
風が生まれる起点になるということ。
それがわたしたちがここにいる、という座標感覚であり、目に映る「風」景の本質なのではないか。
息はただ吸ってはくだけではない。息には音色がある。
自分は意識せずとも、無意識下の部分は外部との会話をフル回転で続けているのだ。
先住民がもう少し意識的にそうしていたように。
その会話のてんまつが息の音色になって風に変わっていく。
自由な先住民にとっての居場所は風に導かれる場所であった。
「ここでやすんでいきなさい」出会った風景が教えてくれた。
とりわけ気のよい場所は風の交差点だった、そのような特別な場所が聖地とされた。
でも、いつしか聖地に先住民はいなくなった。
歴史の常で権力を持つ集団があらわれ、追い出したか、滅ぼしたのだろうと思う。
あるいは自ら去ったか…
わたしは聖地をめぐる旅に憧れがある。でも、その上にあるであろう、どんなに立派な宗教施設をおとずれてもそれを拝むことはない。
職人や祈るひとたちに対して畏敬の念がないわけではないが、わたしは拝まない。あやからない。パリのノートルダム寺院でも出雲大社でも遠慮した。
権威をなるべく排除して、その場所ではるか昔にそこに憩っていたはずの先住民の笑顔と涙を想像していたいと思っている。
というわけでダーラナは野原が似合う子なのだ。
彼女は自分の故郷のかけらに次々と出逢いながら、とんぼと一緒に絵本の中で放浪している。