9/18/2010

9/18


川崎、黒川をさまよい歩いた。古く朽ちた丸太。


福岡、古ばこ食堂午前3時のテーブル。キクイむし文様


路上のチョコレート粒。


アトリエのretablo画。


これは今展示中の小品。下北沢のGallery Denにあります。(~ 9/28)



アトリエの朝。まさに今!

9/09/2010

ランテルナムジカ



いよいよ明日。
福岡で会いましょう。

LANTERNAMUZICA

9/01/2010

コラージュブック的なもの。


























昔、紙を切り貼りする作業に没頭したことがある。
北鎌倉の借家で半年〜1年。世間から背を向けて没頭。
ひたすら切ってはって。
世の中的には廃人。いや狂人か。
売れない絵描き(今もだが、苦笑!)を地で行っていた。とにかく飽きる迄やった。

思い出した。鎌倉の路地に立派な鉄のはさみが捨てられていたのだった。
紐で縛られていたので、嘴を縛られた鳥のようだった。
そのはさみを拾って持ち帰ると、素晴らしい重量感と切れ味であり、これでなにか作ってみたくなった。
大げさだがそれが私のコラージュ人生の始まりだった。

まずコラージュ初心者らしくいろんな図像の切り抜きを貼って行く訳だが、一ヶ月くらいすると、やがて図像への興味は薄れ触覚への興味へと移って行った。図像のメッセージ性から逃れられない事に辟易しはじめた、というのも、ある。

そしてその作品(?)の形も一枚の紙ではなく、保存、携帯性の優れた本の形へ。
このように本の形になってくると、また画面が変わる。
大切なのは見開き、つまりページを開いて0.01秒の間に網膜に映る印象に重きを置くようになる。
そこで重要なのが色彩の…本人にとってのマンネリを脱するための…斬新さと、事故的に発生したテクスチャー。つまり、自分がいままで試していなかったなにか、が求められるという事になる。というかそういう事にした。
一枚絵ではなかなかそのように行かないが、本の形であれば、ページ数がたくさんあるのでつぎつぎと大胆に新しい事を試すことができるのだ。

だから絵をやってる人がコラージュブックを作る事はなかなか良い、と思う。おすすめだ。
あらゆるレベルで、それぞれの好ましい絵を作るにはどうしたらいいかもわかってくる。(だが今はそれを回避している。照れるのである。)あと手と五感を連動させて思う存分働かせてあげる事ができる。これもコンピューターに触る時間が増えた昨今、ますます大事なことだ。

さて余談。これは誰にも言っていない事だが、ある展覧会で参考出品したコラージュブックを盗まれた事があった。コロコロコミックぐらいの厚みがあったすごいやつだ。犯人にはまったく関心しないが、あれを盗んでどうするのか、と考えた時、おもわず吹き出してしまった。コラージュブックは制作過程での画作りのゲームに過ぎない。しいて言えば潜在意識への栄養分補強のためであり、出来上がったブックは本人に取ってすら、もはや価値のないものだからである。

(鎌倉で拾ったはさみは今も使っている。)