10/31/2020

31.Octobre






描きかけの絵。
冬に気持ちが引かれている。
描きたいのは冷たい寂光の中のかすかな暖かさ。

10/30/2020

30.Octobre


作業場には電車で通っている。
秋枯れの無花果畑をみたくて、まわり道を歩き、いつもと違う電停に着いた。
電車を待ちながら本を読んでいると、知らないおじいさんがわたしの前に立ち止まり、すっと古びた紙を差し出した。
「言葉も喋れないし、生活保護を受けて暮らしているのでお金を貸してください」と書いてある。
価格設定がちょっと高くて2000円から3000円。
気まずい空気が漂う。あいにくか幸運か、手持ちのお札はない。
昨日スーパーマーケットで買い物をしたときにお札をカードに課金してしまったからである。小銭いれに500円硬貨があったので差し出した。
手にとってなにも言わず立ち去るおじいさん。

見知らぬ人にお金を渡すのはパリの路上で以来。
利害関係がないのにお金を渡したりすると(災害の支援金とも違う)どうしても普段考えないひとでも社会の仕組みを考えてしまう。政治がよくない、とか批判的な意味ではなくて、なぜ貨幣という頼りない紙や金属、数字を信用して、みんな苦労したり笑ったりしてるのか、というそっちである。そういうことが知りたくて地域通貨に関わったりしたこともあったし、MMTの本も読んでみたけど根源的なお金の謎はわからないままだ。今こうしてメモを書きながら聞こえる都市のノイズもほぼ全てがお金のために誰かが働いている音だ。
生活保護の高齢者単身を調べてみると65000〜80000円。これでは暮らしていけない。お金を乞われる機会はこれから増えてくるのだろうか。

都会ではいろいろな用事があり、こういう小事件があってもすぐに忘れてしまうけれど、わたしは地方都市の郊外と仕事場を往復する単調な生活。
その人は詐欺であったのかもしれないが知る由はなく、無視をしてもあとでやっぱりお金を渡せばよかったと思うだろう。
結局は罪悪感がわずかに軽減された一日をワンコインで買った、という発想で、わたしはいい人じゃない。

10/26/2020

Sans title


カスパールで

おそるおそるドアを開けて、入ってくるひとが、だんだんその場に馴染んでいくのをながめるのは楽しい。

初対面のひと、偶然居合わせた友人と話すひと。

真剣に絵を見るひと(絵をいろんな壁に掛け替える)。

ご近所話をするひと。お茶を飲み飲み遠くを見つめるひと。本を開くひと。

連れられてきたちいさな子が実にくりくりしていて、自分で食べようと思った板チョコをあげた。自分が食べるのもいいけどその子が食べるのがもっといいなあと思ったからだ。

尊敬する画家や写真家がいっぺんに来て戸惑った。

お店の外からみたらなにも見えないけど、その内側では劇場のように、目に見えない素敵なことがいろいろあって力をもらえた嬉しい二日間だった。

10/25/2020

25. Octobre



あるとき、広島のギャラリーで絵を展示していたら、ふらっと入ってきた見知らぬひとがわたしの絵をみてこう言った。

「あんた、もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」

わたしは即座に理解した。このひとのいうアートみたいな絵とは、多分抽象画のことなんだろう、と。

「抽象」…取っつきどころがない。何か模様のような、でもそれは芸術って言われているし、そういうのって、理解できない。
それを=アートみたいな、という。 もやもや…世間ではそういう捉えられ方ではないだろうか。

わたしもまたそうで、絵を仕事にし始めたあともそういう認識だった。
パウル・クレーもベン・ニコルソンも好きだったが、それは結局は高尚な模様みたいなものなのであろうと、そのような理解に過ぎなかった。その奥に何かあるのか?という気配は感じつつ。
その解釈が大きく変化したのはジョルジョ・モランディの絵を知ってからである。でもモランディについてはいまは書かない。

抽象画に一見似ているものにフォークアートがある。
フォークアートの紋様は、例えば漢字の起源のようにデフォルメされた、呪術的な意味が込められていたり、さまざまな魔から身を護るよう、祈りの気持ちを込めるという目的のリピート作業が形作るものと言ってよいだろう。それらはどれも深く、美しい。

一方、美術館にかけられた抽象画は個人の闘いの痕跡が醜く、生々しい。
一見美しいクレーの絵も間近で観たらとてもエッジが立っている。ピカソもまた乱暴に描いているのではなく、そこを強く意識している。ピカソの友人、ジョルジュ・ブラックの作品は、岡本太郎が批判していたように、少し趣味が良くて作品化に気持ちが傾いているものが多いかも。しかし総じてフォークアートと大きく違うのは、心地よさを拒絶するような痛ましさがどこかに必ずあるということで、(アートで生きのびていかなくてはいけないという作家の狡猾さ、かっこ悪さも含めて)そこが魅力になっている。その視点でみた場合、制作者としては狙わない限りはフィニッシュが苛烈なほどいい。えもいわれぬパッションが絵に記録されるからである。(わたしはまだそこまで行けていないが)
ていねいな暮らしの真逆。支配されない。


美術の抽象画を観て顔がひきつり、フォークアートの名品を観て顔が綻ぶ。

どうしてもそうなってしまうので、いま、人気をえやすいのはフォークアートの方に分がある。抽象を描くなら自分を一種のフォークアーティストと見立て、あるいは自己洗脳して描いた方が良いのだろうと、少しずるい考えが浮かぶ。そしてつい、そのように制作するような勇気しか持てなくなり、あまり深く考えることなく過ごしてしまう。

有元利夫を元祖として、この線でアプローチをするひとは多い。そうなってしまうのは、もしかしたら アートとフォークアートの区別を作家自身が深く考えず、混同してしまっているからではないだろうか。
わたしがまたそうだったからである。でも、ある時期から、そこにはやっぱり自分がいないのかもしれないなあ、と気づいた。なぜなら自分はフォークアートや民藝の厳しい反復のある手仕事の時を、あるいは信仰の時を結局は生きていないからだ。
ファインアートなのに、フォークアート風に作るということは、実際は祈りはないのに、何か祈っているような雰囲気で現実を欺いてしまうことになってしまうのではないだろうか。

まあ、なにが言いたいかわからなくなってしまったが、同じ抽象表現でも混同しがちなフォークアートとファインアートは成り立ち方が真逆というほど違うということだ。わたし自身もつい混同してしまうのだが、分けてみないといけない。

わたしは結局は自分は個人にすぎないのだと思い知ったので、集合意識の美は求めず、フォークではない方に行きたい。そっちの方がエゴがあって、怒りがあって、自分がいてもいい、遊べるスペースが存分にあって面白そうなのである。 そして何より「今」がある。

そこで、先ほどの通りすがりのひとの言葉が別の深い意味を持ってたちのぼってくる。

「もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」

10/24/2020

24. Octobre


抽象表現

たくさんの空想上の風景を描きながらも関心は印象の新鮮味だった。

それならもっと印象と直結した抽象というものに素直に向かってもいいのではないか、という気持ちが芽生えてきた。

なぜなら今日の気分、朝の気分、水の味、聴こえる音、というのは、具体的なかたちのあるモノの映像が始めから心に起こるのではなくて、そこに視えるものはまず、仄かな色面であったり、ゆらぎのあるパターンであったりするからだ。

またそれ以上に大切なのは、絵はそれ自体がそのような印象を作り出せるということだ。

絵が、みるひとにどこにもない、そのひとだけの新しい印象を想起させるように作用する。

その効力(と罪深さ)を思うとき、抽象といわれる表現ならではの表現をつくることができるかも、という手応えをつかめるような気がする。

10/23/2020

23. Octobre

 




洋梨を描いた。
先日の雑誌の果物画のコメントで、果物の糖(フルクトース)はからだに悪い一面もあるかも、というようなことを書いたけれど、その後の勉強で、早速訂正で、むしろからだに良いという説を採ることにした。
からだとたべもののことは本当に様々な意見があり、あのときは迷っていたのをそのまま書いてしまった。すこし反省している。
果物は美しいので、それがよいものでよかった。(←完全にわたし個人の中の問題の話で本当にどうでもいいね)

明日24、明後日25は葉山のbookshop kasparにおります。

10/19/2020

Nyabo Ssebo 「新鮮な郷愁」@熱海未来音楽祭2020


もうすぐ23日、 Nyabo Ssebo のライブ「新鮮な郷愁」。
いいタイトル。
熱海未来音楽祭はあの巻上公一さんの主宰するフェスティバル。その一環として。

ますます進化しているNyabo Sseboの音楽。
今回のわたしのお役目は映像提供でスタジオで作業したものを。
クレジットにはスライドとあるけど映像になりそう。
会場はエタブルのストア、東京から1時間。

こちら

*

10月23日(金)ライブ
「新鮮な郷愁」ニャボセボ
会場: EOMO store(〒413-0013 静岡県熱海市銀座町6-6 1F
(熱海駅より徒歩15分)) 

クラリネットとガットギターのノスタルジックなサウンドに、南米エッセンスや変拍子を巧みに取り入れた絶妙なアンサンブル 

開場18:30 開演19:00 出演:Nyabo Ssebo ニャボセボ    
黒川紗恵子 クラリネット 田中庸介 ギター ゲスト:神田智子(ボーカル)、nakaban(スライド提供)

10/18/2020

19. Octobre


葉山のブックショップ カスパールでの個展がはじまった。
24日と25日は葉山のギャラリーにいます。

絵を楽しんでもらうというより、ぱっと見「楽しめない」。
だからエンターテインするのとはちょっと違う。
でも、しれっと生活に馴染んでしまう絵。
子どもさんがガツンと玩具などを当てて傷がついてもそれはそれでいいかというような。(でもあまりに大きな傷はわたしが修します)
色やカタチの傾きの、おっとっとや安堵のアンバランス。
その日の「見え」の違いによって、刺激的に見えたり、包まれるような優しさになったりする画面。なんか気になる絵。
三年後には愛着がわいてるような絵。色あせながらも呼吸する絵。

…そういうふうになったらいいなあ。
わたしは見るひとをなめてかかることはしない。
そういうこととは一生無縁でありたい、とある本を作っていたとき(今、中断してますが)、誓ったのだ。

未知のみるひとがあらわれるということには畏怖にも似た感情があって、それが制作のときの緊張感になっている。

カスパールには「ことばの生まれる景色」の原画巡回展示のときに初訪問。
友人の山口洋佑さんのつくったマークのドアを開くと、落ち着いた品のあるギャラリー。
隣室の本屋さんのセレクトの良さ(としか表現できない。独特な個性)。
感激して、今度はオリジナルで展示させてくださいっ!て青木さんにお願いした。
自分にしてはせっきょくてきだった。

実現してよかった。

10/16/2020

illustration誌でnakaban+植田真 特集。







illustration誌(No228)で特集されてしまった。

nakaban+植田真 特集。こちらを 


編集長のTさんから特集のお話をいただいたときは驚いた。
うん、無理だよ。と思った。
わたしは自分の今までの仕事の全容を把握していない。
次から次へと仕事を乗り越えながらずーっと生きているし、それに結構うっかりしているので、重要なお仕事も忘れてしまったりする。
絵もあちこち何処かに散逸。この画室の中にはあると思うのだが、という状態。とにかくカオス状態なので

「どんな仕事がありますか?」

と、問われたときに整理したのをお見せできる状態ではない。

「Tさんが広島に来てくださるなら…」、と気弱にお返事差し上げたら本当にいらっしゃることになってしまった。手にはバッチリわたしの過去の仕事の領域別の項目が、さすが。わたしより把握しているかも。

インタビューのような雑談のようなたのしい数時間だった。トムズボックスの過去のほとんどの展示や本ブログの隅々までみていただいていることに驚いた。Tさんのページへの熱量。すごかった。

お送りした後、あれこれ引っ張り出してご希望いただいたのを送ったのを選んでいただいた。過去作を選びながら、昔のアルバムを眺めるように時間旅行した。(そうだ、写真撮影もすごく大変だったと思う。カメラマンさん、ありがとうございます。)

さらに、わたしにとっての恩人の方々が文章を寄せてくださることになり、恐縮した。ありがたいなあと思った。一人で仕事してるんじゃないんだよなあ。当たり前だけど。本当に時間旅行だ。

とても盛り沢山の内容で先日、雑誌が仕上がって手元に送っていただいた。

しばらくこんなのはないと思うので、本当にぜひ、ご覧いただけたら嬉しい。
テキストも多くて、なんだかいろいろ好き勝手言ってるし…。楽しんでいただけるかも?

植田さんとクロスしたページも、もちろんある。手紙のやりとりをした。記事になるの意識するはずが、いつも通りのものを送った。送っていただいた手紙はすごくいいものをもらってしまったのだけど(しかも実用アイテム)、誌面をご覧いただけたら。(宣伝)

植田さんのコーナー、彼のインタビューを今読んでいて深い感動の中にいる…。絵もやっぱりとてもかっこいい。こうして雑誌のかたちでまとまった植田さんの作品を眺めていると、植田さんは寡作な作曲家の曲のようにタッチをゆっくりと増やしていっているように感じた。そのそれぞれは「再演」されるたびに深くなっていくのだろうなあ。




「読むことの風」

 








saudade booksの新刊はアサノタカオさんの随筆集。
個展の制作が終わったら、読もうと思っていた。
アサノさんの本だったら移動しながら読みたいな、と思っていて、広島のまちを歩きながら読んでいる。

汽水域の岸辺にやってきて流れ着いた木に本を乗っけて写真を撮った。
美しい本が少し汚れてしまい、でも、これでわたしだけの本だ。

端正な装丁に負けない眼差しが言葉から伝わってくる。
アサノさんの学生時代の生き方の分岐点のこと、ブラジルでの出来事。南島。言葉をめぐる葛藤。詩人との出会い。本屋さんという場のこと(すごい考察があるので必読だと思う)。そして時にひとりであること。saudade booksの原点に触れる。
読ませていただきながら、静かに澄んでいくのに、何かをぱちぱち発火させられる感じがする。
わたしにこのころ「南」が足りない、とかすかな飢餓感のようなものを憶える。

エッセイと詩的なメモのようなテキストが交互に、少しずつ変化しながら構成されている。
出版物として世の中に向けて書かれた長文エッセイが、むしろ書いた本人の密かな決意として強く伝わってきて、個人的なメモはまたそれとは違う形で感覚的に多くの心を揺さぶるだろう。多層的な読みができる素敵な本だ。

読み進めると、エッセイの一編に本を海岸に置いて撮影した話があって、あ!と思った。
写真、真似をしたと思われる。

10/12/2020

12.Octobre

 



葉山のブックショップカスパールでの個展がもうすぐ。
パレットに使うために卵をたくさん食べた。
いろんな卵を買ってきて卵グルメ状態になった。

-nakaban expo-
Dissonance is unknown harmony

2020.10.17(sat) - 11.1(sun)
closed on Thu. Fri.
open:11:00-17:00


ひとつの色を塗り終える瞬間までその絵がどんな見え方になるのかが全く予想がつかない。
予想がつきそうなものなのにそうなのだ。とても不思議だ。
そして今まで見たことのない印象に導かれて絵ができていくんだよね。

木枠付け作業中。

10/11/2020

11.Octobre


病気を他人にうつさないためのマスク着用という「優しさ」。
しかしそれが実は水面下でひとの身体に、社会に大きな害を出しているというマイナス面「も」あることを知って欲しい。

それに対して件のコロナは餅を喉に詰まらせて亡くなる人ほどの数の死者を出していない。
ウィルスというものの人から人への感染という確たる証拠もないまま(この150年間ずっと!)騒ぎだけが大きくなっている。

ここに書くまでもなく、誰もがこのようなおかしなことに気付いていて、でも言えない。
なぜなら暗黙のルールと「プログラミングされた優しさ」が定着してしまったからだ。
そのためにもうみんなマスクを外せない。

ルールを守ることは大切だ。わたしだってもちろんそれには同意する。
しかし、政治も医学も間違えることが多いというのは歴史が示すとおり。
例えば「戦争」は、そうやって「みんな耐えて我慢してるんだから」というルールと同調圧力の中ではじまったのではないのか。


特にお店をやっていたりの接客環境で、わたしと同じような疑問を少しでも持っているひとは、余計な責任を課せられていて、すごくストレスだろうと思う。
会社員の方もそうだろう。そして子どもたちにもこういうことを強いている。ひどい話だと思う。 何とかならないだろうか。

ブログに書こうと、マスクの害とその意味のなさをつらつらと書き綴って、でもあまりに膨大に項目が多くてアップするのをやめた。(マスクをすることの利点はとてもすくなかった)

マスクに慣れすぎてしまって、一人で歩いている時も着用している人がいらっしゃる。
下にある記事を貼り付けるけど、そのようなリスクもあるので、せめて一人でいる時は外してみるのはどうだろうか。

少しづつ、例えばこうだ。組織の中にいる間はルールを守るフリをしてマスクをし一人の時はマスクをはずす。とか。マスクをつけることにいつの間にか慣れてしまわないことが大事だと思う。

もちろん健康のことは自分で調べて決めることだ。
ただし、主流の報道は残念なことに 1.ワクチン販売ビジネス 2.管理社会化 この二つに今は舵を切っているので「人の体力を削る方向」へと強いバイアスがかかっていることは頭に入れておいた方がいいだろうと思う。
マスク、消毒、孤立化。経済活動の停止。ここで偉そうに指摘することでもないと思うけれど、わたしは「削ってきてるな〜」と感じずにはいられなくて。

わたしにとって、絵も本も音楽も食べ物も大切なものだが、レベル違いに、ゴマつぶと宇宙レベルに、スバ抜けて大切な、なくてはならないものは「呼吸」だ。
大袈裟に言うと、呼吸とは地球とのシンクロであり会話であると考える。

どのような仕事もそうだと思うけど、絵だって呼吸がととのわなければいいのが描けない。
呼吸がととのわないと、考えることも億劫になってボーッとしてくる。誰もが社会のルールを守るだけで安心してしまい、根本的におかしなことを批判しなくなる。




 「酸素欠乏は永久的な神経障害を引き起こす」
Margareta Griesz Brisson:Neurologin

元記事はyoutube

https://youtu.be/pd22FGeuyog



翻訳:

"私たちが吐いた空気を再吸入すれば、間違いなく酸素不足と二酸化炭素の氾濫を引き起こすでしょう。人間の脳は酸素不足に非常に敏感であることがわかっています。例えば海馬には、酸素がない状態で3分以上過ごすことができない神経細胞があり、生きていくことができません。

急性の警告症状としては、頭痛、眠気、めまい、集中力の低下、反応時間の低下、認知システムの反応などがあります。 しかし、慢性的な酸素欠乏になると、それらの症状はすべて消えてしまいます。しかし、あなたの効率は損なわれたままで、脳内の酸素不足は進行し続けます。

神経変性疾患は、発症するまでに数年から数十年かかることがわかっています。今日、電話番号を忘れてしまったとしても、脳の故障は20年、30年前にはすでに始まっているはずです。

マスクをつけて自分の吐いた空気を再呼吸することに慣れてきたと思っている間に、酸素欠乏が続くと脳内の変性プロセスが増幅されていくのです。

第二の問題は、脳内の神経細胞が正常に分裂できなくなることです。ですから、もし政府がマスクを外して、数ヶ月後に自由に酸素を吸えるようにしたとしても、失われた神経細胞はもう再生されません。消えたものは消えてしまうのです。

私はマスクをしていない、考えるためには脳が必要だ。患者さんを相手にするときには、炭酸ガスによる麻酔ではなく、頭をクリアにしていたいのです。

酸素欠乏はすべての脳にとって危険なので、根拠のない医学的免除はありません。ウイルスから身を守るために絶対に効果のないマスクをつけたいかどうかは、すべての人間の自由な判断でなければなりません。

子供や思春期の子供にとってマスクは絶対にダメなのです。子供や思春期の子供たちは、非常に活発で適応性の高い免疫システムを持っており、地球の微生物との絶え間ない相互作用を必要としています。彼らの脳もまた、学ぶべきことがたくさんあるため、信じられないほど活発に活動しています。子供の脳、つまり若者の脳は酸素を渇望しています。新陳代謝が活発な器官であればあるほど、より多くの酸素を必要とします。子供や青年では、すべての器官が代謝的に活動しています。

子供や思春期の脳から酸素を奪ったり、何らかの方法で酸素を制限したりすることは、健康を害するだけでなく、絶対に犯罪です。酸素欠乏は脳の発達を阻害し、その結果として起こったダメージは元に戻すことができません。

子供は学ぶために脳を必要とし、脳は機能するために酸素を必要とします。そのための臨床研究は必要ありません。これは単純で議論の余地のない生理学です。意識的に意図的に酸素欠乏を誘発することは、絶対的に意図的な健康被害であり、絶対的な医学的禁忌です。

医学における絶対的な医学的禁忌とは、この薬、この治療法、この方法や手段は使用すべきではないし、使用することも許されていないことを意味します。全人口に絶対的医学的禁忌の使用を強制するには、そのための明確で重大な理由が必要であり、その理由を学際的かつ独立した権限のある機関に提示し、検証と認可を受けなければならない。

10年後に認知症が指数関数的に増加し、若い世代が神が与えた潜在能力を発揮できなくなった時、「マスクは必要なかった」と言っても何の役にも立たないでしょう。

獣医師、ソフトウェア販売業者、ビジネスマン、電気自動車メーカー、物理学者が、国民全体の健康に関することをどうやって決めることができるのでしょうか?どうか、親愛なる同僚の皆さん、私たちは皆、目を覚まさなければなりません。

私は、酸素欠乏が脳にどれほどのダメージを与えるかを知っています。循環器科医は、心臓にどれほどのダメージを与えるかを知っています。酸素欠乏はあらゆる臓器にダメージを与えます。

私たちの健康部門、健康保険、医師会はどこにいるのでしょうか?ロックダウンに猛烈に反対し、ロックダウンを止め、最初から止めるのが彼らの義務だったはずです。

なぜ医師会は、人に免罪符を与える医師に罰則を与えるのか。本人や医師は、酸素欠乏が人に害を及ぼすことを本気で証明しなければならないのでしょうか?私たちの医師や医師会は、どんな医療を代表しているのでしょうか?

この犯罪の責任は誰にあるのか?強制執行しようとする者?それを放置して、それに付き合っている者、それを防がない者?

マスクのことでも ウイルスのことでもなく あなたの健康のことでもない それ以上のことをしている。私は参加していません。怖くはありません。

気づいたでしょう、彼らはすでに私たちの呼吸する空気を奪っています。
この時間の必須事項は、個人の責任です。
私たちはメディアではなく、私たちが考えることに責任があります。上司ではなく、自分の行動に責任がある。
世界保健機関ではなく、自分の健康に責任があります。





10/06/2020

10/05/2020

5. Octobre



「物質と力をふたつの異なることばに分けることはできない。
 力は解放された物質である。物質は束縛された力である」
1893年  John Ernst Worrell Keely

昔の人の方がものを見ているではないか、と思うことがある。
キーリーは水と空気から動力を得るというエーテル・モーターを発明し後に詐欺師とされた人物である。なぜならその力はことばでは説明できない摩訶不思議なもので、本人もやはり最終的にはその仕組みを「ことば」で説明できないものだったからだ。水、空気、エーテル。そして彼の死により本当のところはわからない。

そのようなロストテクノロジーの研究者がたくさんいた20世期。
わたしは絵画も一種のロストテクノロジーだと思っているから興味深く思う。
説明したくてもできない。でもそのような力、方法は存在する。
最初に引用した言葉を読んだとき、好きだ。と思った。
なんだか絵の力の存在を肯定してもらえてる感じがする。結局はあれらの不思議を説明するには無理であるに違いないが。
あと、おいしいと思う食べ物にもその言葉を沿えたい。
美しいと思う動物、植物、鉱物たちにももちろん。
そのかたち、色の波長も動き(静止も含む)も考えてみたら力である。

不思議なことに、絵を描くときに他者に共感を求めようとすればその力は一気に弱まる。
ことば、そして感情は悲しいことに時代が進むごとにますます断片化されており、その悲劇を俯瞰できないまま語り、共感を求めようとするからではないかと思っている。もちろんこういうことをわかったふりをして書いているわたしも、もれなく断片化されているのであり、それをどうするかが今後の課題なのだ。
絵の制作においては、かわいい猫ちゃんの絵を描いてもいいけど猫ちゃんとはますます関係がないという態度が大切だと思っている。猫ちゃんの魅力は他者に共感を求めないということであるというのと同じように。話がそれたけれど。

さて、エーテルのような力がもし本当にあるとしても、実際に生活に用いようとすれば、メジャーなエネルギー供給者から圧力を受け、とんでも科学扱いが始まり、めっためたに潰されることだろう。
同様にもし、絵画を単なる雑貨のような見方で消費するのではなく、それは心身の治癒のためのツールなんだから、という主張を強くしていけば、いつかなんらかの形で攻撃を受けてしまうだろう。あの人は頭がおかしいという評判も流布される。

しかし、こういうふうに思い至ったときに余計な忖度はいらない。
芸術を特別扱いするという心理的な牢獄に入れているのがいけない。それは結局のところ「力」を弱めるということになるのだから。
そうではなくて、誰もがそれを実践し、効果を感じて楽しむ状態になったらいいのに。
つまり人と道具。結局その捉え方だけで十分なのかもしれない。そして道具は手の延長であるということを忘れないようにしたい。
最終的には芸術家という仕事なんて、なくなればいいと思う。