9/28/2023

玉村豊男のポテトブック

 



新刊「玉村豊男のポテトブック」が朝日出版社から刊行された。
素晴らしいイラストレータたちに混ぜていただき、カットをふたつほど描いた。
フランスに暮らした後、長野でワイナリーを経営、畑や料理もやって、なにより文章が絶品な玉村さん。彼でなくては書けない本だ。

9/22/2023

22.Septembre


ほぼ毎日、朝、仕事場に着く前にスーパーマーケットに寄って食材を買っている。
最近いろいろな商品が高価になって商品が動いていない。売れ残り必至状態。
売る方にも買う方にも良くない状況だなあ、とぼんやり思っていたら、新聞社の街頭取材を頼まれてしまった。

・ちょっと前の値段感が染み付いているので何も買えません。
・家庭菜園やろうと思ってる。
・栄養学をかじって購入品目をメッチャ厳選してる。

などと答えた。はたして掲載されるだろうか?

新聞社のひとは異常気象や災害が原因の値上がりですかね〜と言っていた。
わたしは消費税のしわ寄せがだいぶ大きいと思う。(全ての過程にかかる10%)
それは言わなかったけどいちばん言っておくことだった。

あとスーパーマーケットも規格外大きさやのキズやありの野菜をならべることにも寛容になってほしいこととか。

農業は肥料代や資材代の高騰の煽りを受けているので、それも野菜の値上がりの原因なのだろう。少しずつでも肥料や農薬にお金をかけない自然農法が増えたらいいなと思う。

場違いな肥料の与えすぎの、その場の状態をバランスするために、どこからともなく虫や細菌がやってくるというのは趣味レベルの植物栽培をしているわたしでも実感しているのだ。(だから虫や細菌は悪者ではない。)

そういえば、今出てる農文協の「現代農業」は不耕起栽培の特集だったので、おどろいた。農家はみんなこの雑誌を読んでいる。農家ではない趣味のひとが読んでもとても面白い雑誌。
まあ実際に不耕起栽培にチェンジする農家は少ないと思うけど、少しづつ変わっていくのかな。

マルチと緑肥用に畑で草を倒すのにドラム缶をローラーがわりに使っているのだと。ドラム缶がたくさん売れたりしたら、面白い。
今度わたしの空想風景画の中に、農村風景を描きたくなったなら、ドラム缶を押し回す農夫を描いてみたい。


9/21/2023

本日「本とこラジオ」




おしらせ(急)。本日13時から。
矢萩多聞さんといわながさとこさんのネットラジオ「本とこラジオ」でお話し。
『風をとおすレッスン』(創元社)を最近一緒に作った関係で(矢萩多聞さんがデザイン)お呼びいただいた。

アーカイヴも残されるようだ。
https://www.hontoco.net


9/17/2023

Field Studies (2)

 



剪定した枝は細かく刻みチップにして撒いておいた。
数日経ち、再び現場を訪れると何かクローバーのような芽が発芽している。
見えない手が、目の前に差し出してくれたような良い形。



何か木を植えようと穴を掘ると、カチン!どこもかしこも石に当たり、なかなか地面にシャベルが入らない。
これは意図的に埋められているとしか思えない。昔、石垣か何かに使われた石ではないか。
掘れば掘る程無限に出てくる。
この石は石積みで何かを作る野望のために保存しておく。


重労働で疲れてきたら落ちた柿を探す。
糖のせいか、何らかのフィトケミカルのせいか、中に虫などは入らず、きれいなものだ。




9/12/2023

9/07/2023

Field Studies (1)

 



新しい作業場を作ろうとしている。
といいつつ、その場所は自分でも気楽に通えない遠い港町。
土地と建物は世の中的には安いのだろうが、わたしには高い買い物。
「すっからかん」になったので、いろいろ設備が壊れているけど暫くはなおせない。
でも家屋の部分にはあまり情熱がない。とにかく植生、土、そして井戸水。

その庭は荒れ野のようでいて調和がある。
どういうふうに太陽光を入れて行くのがいいのだろうか。
好きに刈り取ったり植えたりしていくと、おそらくこのかっこよさが失われる。

蜘蛛の巣が張ってそれも古くなり蜘蛛も居なくなり枯れ葉などが絡まった枝がある。
伐ってもいいという合図ではないだろうか。


9/01/2023

1.Septembre

 

この夏はずっとある絵本のための絵を描いていた。
描き終わったら夏が終わってた。

その日々でふと思ったこと。
水が流れたり凍ったり気体になったり。そういうことを子ども時代に習ったわけだけど、それで何かを知ったつもりであったが、結局何も知れてないなあと思ったのだ。それは単に観察結果による法則を習っただけで、ああいうふうに、凍ったり、雪の結晶になったり、湖なんかでも常に色の帯び方が違うということの本当の理由は全くわからない。

中世の昔では科学はなぜ物質は「こうなりたい」のか、とモノの意志に同調して思考する学問であったのだという。だから科学者はまるで詩人のようでなければならなかった。すぐにレファレンスにあたらない。まずは考えるっていうのがいいなあと思う。

例えばゲーテのような詩人であるなら「不思議だねえ」で止まってまったりしていてはだめだったのだ。不思議というワードが浮かんだということは、素晴らしいこと。でも、「不思議だねえ〜」とまったりしてはもったい無い。そこがもっと深入りしていくための起点なのだ。

現代はデータの蓄積は過去最高に違いないが、わたしはデータがそんなに偉いのかという気持ちになっている。このコロナ禍での数字に踊らされての社会の右往左往、ひどかった。その数字の根拠もいい加減なものばかりで、ひどいものだった。

何か、現代人の学習には何かが根本的に欠けてるのではないかと思うのだ。
もっというと、そのように社会がデザインされている。
だからロボットみたいな判断ばかりになって、ルールをつくる存在たちにいとも簡単に騙されてしまう。

さて、なぜ雪の結晶はあんなにきれいで、そんなすごく複雑神秘な宝石のような結晶が大量に溶けた水を飲んで、ひとは平静な気持ちでいられるのだろうか。
本当だったら平気じゃないよね。心が爆発するはずだ。しないか。笑。

そういうことを考えるのが案外生きてる意味かもしれない。そうやって川を眺めたり水を飲んで暮らしていくとか、すごく大事だと思うんだけどね。

AIが社会に登場して来たのでロボットはあっちにやってもらって、人間は思考の方向性をぐるっと変える時期に来ているのかも。そんなふうに思ってる。