1/26/2021

1/25/2021

25.Janvier

 


granny smith apple


1/23/2021

1/18/2021

18.Janvier

 




描きかけの絵を仕上げた。
これは寺村摩耶子さんの本「オブジェの店」のカバーを描いた時のヴァリエーションのひとつ。

どこかの街の忘れていたはずの記憶の断片が、気持ちひとつで戻ってくる不思議さよ。
色とりどりの瓶が石像の下に並べて捨てられていたり、引っ越して行った人が捨てたのか、肖像画がひそかに立てかけてあったり。
ある時なかなか素敵な椅子が捨てられていて、ほしいなあと思った。一緒に捨てられている段ボール箱に入れて日本に送ろうかと、考えながらしばらく周辺を歩いて、帰り道にみてみると、もうなくなっていたw

夜になって頼りない明るさのランプの色合いのせいか、建物の壁が黄色くなるのとかも好きだ。無情に閉ざされた窓。光る看板。誰もいない隅っこで猫の集団が株主会議をしていたことがある。
ショーウィンドウ。お店が閉まっても昔ながらに灯がついて品物が並べてある。
ポルトガルの地方の町では閉店後、床に商品の缶詰を並べて飾っているお店があった。わたしのような人が覗き込む時のために。
閉店の儀式に床をモップして毎日缶詰を並べる人がいると思うと愉快になる。















1/16/2021

16.Janvier


なんというか、コロナ対策があまりに真面目すぎて、世の中がパニックめいて、危険なことになっている気がする。

自由がない未来を予感させる。これは感染症なんかよりずっと恐ろしいものではないだろうか。
個人的にはわたしはそんな未来を見たくない。

入院や行動歴調査を拒否すれば罰則も 自宅・宿泊療養を義務化 政府が感染症法改正を検討<新型コロナ> tokyo shinbun
旅行やイベント復帰は「ワクチン接種証明アプリ」が必須に?  CNN jp

今日も。
ドイツ、コロナ隔離違反者などを収容する刑務所開設へ  Sputnik

こういう、ちょっと前ではありえなかったニュース記事がずらずらと。

なにもわたしは、わたしたちの「健康を脅かすもの」を軽視して書いているわけではない。
ただ、毎年の風邪とさほど変わらないものに対して、対策が過剰すぎると思うのだ。
そう書くと、やっぱり怒るひとがいるだろうなあ。みんな一生懸命この現状に対策しているのだから。
どうか一冊でも本を読んでもらえたら、いいのだけど。

コロナパンデミックは、本当か?

と言ってもお読みになられないと思うので、ひとこと書くと、わたしが上に書いたことと同じようなことの根拠がひとつひとつ書いてある。
この事態は騒ぎすぎである、と。

これが個人的なノートとはいえ、こうしてわたしが、ときどき、マスク社会や、真面目に感染症と付き合うことを批判するのが、お読みになられて不快に思うひとも多いと思う。
たぶん、おまえは絵だけ描いてろ、と思われてるだろう。
でも、このように社会は自由を失う方向に進んでいく。
まるで家畜か品物のようにひとが管理されるようになる。たまったものではない。

マスコミが報道した煽り気味の情報だけで判断して、怖がれば怖がるほど、そういう個人の自由のない方向に誘導されてしまう。
この2021年1月に、これだけは書き記しておかなければ。。

仕事をするうえで、大人の事情も多いけど、わたしにとって自分に正直にあることはいちばん大切なことだ。そのばか正直でいることと絵の内容は密接に繋がっているはずだ。
それに、わたしは自由が奪われることにはとても敏感らしい。もしかして前世は鎖に繋がれた奴隷だったのだろうか。
このへんのこだわりはアートを頑張る(?)こととも深く関係があると思っている。

アートは何か?いつも考えるのだけど、シンプルに、それは「自由を指向する眼差し」という結論に行き着く。
そしてその自由は伝染していく(今は不謹慎な表現だけど)。
だからひとは音楽を聴き、絵を見て、本を読み、だれか他のひとがつくったおいしいものを食べる。いつもと違うコースで通勤しながら景色を見ることもそう。未知のミームをとりこむ。

では、いざ自由にどうぞ、と放り出されると不安が生じる。
どこにいけばよいのかわからない。誰も助けてくれない。
自分で答えを探さなければいけない。
だからとてもたいへん。そしておもしろい。
そうやってつくったものは、決して、それはただのコンテンツではない。
ある一つの「座標」なのだ。
その座標は小さなこんぺいとうのような点だから、そこに同時に他のひとは立てないんだね。
その小さな点の上で、自分は何者にも飼い慣らされないぞ、という表明をする、そういう感じ。
このディストピアで、おそらくただひとつの自由につながっていられる方法。

アートの、この単純で大切な存在意義は美術の教室でも美大でも教えてくれない。
でも、誰かが教えてくれても実感できないかも。自分で気づくことが大事なのかなあ。
それで、40歳くらいになったころにわたしはようやく気づいたけど、これを知っていたら美大になんて行かなくていい。行かなくてよかったのに。なんて思う。

ここが「ぶれて」はいけないのだ。
そして、実は次に書くこれが一番大事なのだけど、ひとのすべての活動はやっぱりアートなのだ。
だからちょっとした視点の違いで他のひとの立つ座標を否定するのはよくない。

追記:流れるままに書いたけど、要は当たり前だけど、ひとの自由というのは優先順位的にもっとも大切、ということだ。

1/15/2021

「読むことの風」原画展 @「本屋・生活綴方」





昨年saudade booksから刊行された「読むことの風」。
著者のアサノタカオさんは編集者。
アサノさんはご自分で文章を発表することにいつも謙虚なひとだ。
それがご自分の本を出されるとは、とちょっと驚いた。
絶対いい本になるんだろうなあ。ぜひ、と絵を使っていただいた。
しばらくして見本が送られてきた。この世にはたくさんの本があるけれど、saudade booksにしかない佇まいがあって、それがこの本にもある。
やっぱり読み終わるのがもったいないようないい本。
そのあと、鎌倉でお会いしたときに、いい本が出来たから原画展したいですね、と盛り上がった。

というわけで、、
その原画展が横浜・妙蓮寺の「本屋・生活綴方」で。
矢萩多聞さんに聞いた本屋さんだ。行ってみたい。

もともとはsaudade booksのwebマガジン用の絵なのだけど、表紙の絵を初め、そのうちの何点かが「読むことの風」に収められた。文章が良くてふーっと本から目をあげた時にそばに冷たい水があると嬉しいでしょ。そういう感じに使っていただいた。

たくさんのグラスの水の絵をカルトンから取り出して、こんなにいっぱいあったっけ、とびっくり。かき集めたアンティークの額に入れた。また外に出られて絵も嬉しそう。

ぜひ横浜へ「本屋・生活綴方」にどうぞ。
嬉しいことに、2月には大阪のBlackbirdbooksにも巡回する。乾杯!(←水)



1/14/2021

水彩のワインボトル





ANAの機内誌「翼の王国」の岡田カーヤさんによる、「ワイン・カルフォルニア」という連載のカット。

取材で撮影された複数の写真からイメージを膨らませて描く。
月に一度の水彩の時間。

なぜかずーっと捨てずに数年持っているスターバックスのアイスコーヒーのプラカップに水を注いで、絵具を用意する。黒い琺瑯のような絵の具箱(漆のイメージでjapanned boxという)。
その水彩絵具の箱を開けるとき、少し不思議な気持ちになるんだよね。
子どもの頃水彩をよく描いていたので、わずか一瞬記憶が遡る感じ。

1/11/2021

1/07/2021

7.Janvier



ウィルスを絵に描きなさい。

絵の教室でそう言う課題が出されるとする。すると黒いウニのようなトゲトゲに意地悪そうな顔がついたのを描くでしょう?
でも実際のウィルスにそんな意地悪そうな顔はついていない。

無表情…それどころか「ウィルスが病気を引き起こす」という今までの常識は間違えているのかも。




のかも、なんてわざとらしく書いたけど、そう、世の中のこうしたウィルスへの見解は間違えている、とわたし自身はこの先生の文章を読む前から、コロナで慌てて調べに調べた昨年の途中ころから思っている。
だから礼儀作法には悪いかも知れないけどマスクをしていない。
海馬への酸素不足で脳が損傷するのがいやだから。
これ以上わたしもボケたらこまるので…。



1/06/2021

6.Janvier

 


描きかけ 鳩とサンスベリア。

1/03/2021

3.Janvier

 



昔のステレオ写真のガラス板とそれを見る装置を入手した。
のぞいてみると、たしかに奥行きがある。舞台の書き割りのように不自然な立体感ではあるが、それでも本当にその場所にいるみたい。映画を見るより面白い気がする。これをずっと何十分も眺めているのもいい。(変人なので)
ふと我にかえって、元のガラス板を見れば、ただの古ぼけた写真が二枚並んでいるだけだ。それをレンズ越しに二つの目で組み合わせて立体を結ぶ。二つの写真と書いたが、そのどちらともわずかに違う一つの立体画が資格の中に結ばれる。つまりこの立体画は、撮影された100年前の画像ではなくて、今この瞬間にわたしの内に生まれたオリジナルの景色なのだ。
しばらく楽しんだのち、機材を傍に置いて部屋を見回すと、ふしぎな感覚に襲われた。何もこのようなステレオ写真でなくても、この現実の景色もやはりリアルタイムに結ばれた内面風景なのだ、ということを認めざるを得なくなったからだ。哲学の本には、この世界には自分の感覚以外は存在しないという唯我論という考えが出てくるが、あながち嘘とも言い切れない。
ふと、絵というものにはまた自然の法則から自由な、描くひと、見るひとそれぞれの特別な立体感があるのではないかとひらめいた。絵を描くときの、その景色への没入感を考えるときに、このステレオ写真というのは、良いヒントになったのだ。
今年はこの像を結ぶということの神秘をただ神秘と見做すだけでなく、手に掴めるようにするために考えて行きたい。(抱負風だが単なる思いつきで、特に年初の抱負はないので成り行きでw)
そういう役立たずの思考実験が、絵を描くことをますます面白くしてくれるに違いない。
さて、あの白い家まで歩くとどのくらい?