原発にnoを。
上関の原発のことを頭に思い浮かべながら書いている。
これだけ電気の恩恵に浴しておきながらも、やはり私は原発にnoと言い続けようと思う。
何をしていても原発の周辺の、数えきれない不幸な事がらを考えてしまい、頭に蜘蛛の巣が張られているように感じる。この世から原発が無くならない限り、この不快感は消えないのだろう。
その理由を書いてみようと思う。
私には原発というと思い出す本がある。
それはC.チャペックの『絶対子工場』という題のSF本で、たしか小学生のころ読んだ。
たいして読書好きでもない田舎の小学生がチャペックに触れるとは不思議だが、そのころ私はSFが好きで、ロボットという言葉の発明者なんだ、という理由で手に取ったのだと思う。
内容は喜劇風の原発を風刺した物語だった。
今読むとやはりチャペックらしく軽妙な文体だし、喜劇なのかもしれないが、その『絶対子工場』では制御出来なくなった原子エネルギーの得体の知れなさが見事に描かれていて、子どもにとってはたいへん怖い話なのだった。
(ただし刊行時の1922年には原発は構想すらないはず。チャペックは不思議な人だ)
この本を読んで以来のショックは今も継続している。やはりあれは人が手を出してはいけない領域なのだ、と今でも原発の事を考えるたびに思ってしまう。
私ひとりの個人的な不安やチャペックのお話の中だけで済めば良いが、そのあと現に事故が起こった。
チェルノブイリ。ニュースの映像を覚えている。怖かった。
悲惨だった。誰もがそう思ったはず。思いだしましょう。
ユーラシア全土を覆った放射能の汚染。
遠く離れた日本でも放射性物質が検出された。
水、土、空気がすべて汚染され、生き物の奇形、病気が起こった。
そして最も悲しい事、怖い事。それは汚れてしまったものへの差別が生まれた事だ。
事故現場はコンクリートで覆われた。あの石棺の写真を見ると今でも鳥肌が立つ。
日本でも事故があった。
1999年の東海村JCO臨界事故では2人が死んだ。また600人以上の被爆者。
2007年の新潟の地震での原発の損傷では、あぶないところだった。
が、まったく
無問題で済んだわけではない。つい先月、松江の島根原発の点検漏れがあった問題で、中国電力の担当部長が不審きわまりない自殺と、これだって見逃せない。(中国電力は今上関原発を建設中) (同様の自殺事件は1995年の「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故が起きたときにもあった。)
そのような不幸が今も、たった今も拡がりつづけていると考えると、仕事中だろうが遊んでいようが、そのイヤな感じはますます重さを増してゆく。
だからnoなのだ。
けれど、負の可能性には蓋をして、今の日本には原発を倍増させる計画がある。
今年の1月に発表されて、それを知って新年早々、暗い気分に陥った。
この地図を知らない人、できたらちょっと足をとめて眺めて欲しいと思う。
クリックで拡大。今後この倍の原発が建つ。原発を増やす事は表向きは電気の確保の為、環境の為、と言っているが、私は違うと思う。
これからはあらゆる機器の省電力化がますます進むだろうし、日本の人口は
減少中だ。それなのに電気がさらに必要で、原発の基数を倍増というのはどうしても納得できない。
でも、データを引っ張って来てここでうだうだ言うつもりは無い。学者ではないし、情報のウラをとる能力が私には無い。
最初に書いた様に、直感で原発は恐ろしいものだ、と思うから反対している。
原発で電気を作る事が百歩譲って(譲らないが)この国にとってスマートであるとしよう。
けれども現実に、あきらかに地方の人々の暮らしをめちゃめちゃに壊しているという問題が棚にあげられている。それはどういうことなのか…!
それは迷惑というレベルではない。むしろ侵略に等しいという程のものなのに。
それでも原発がまた、出来たとすれば、毎日毎日、当の電力会社や行政自身が、度かさなる地震や点検ミスに怯えることになる。
そして実際、地震や点検ミスは起こる。そのせいで原発の稼働率は低いまま、代替の
火力発電に頼ることになる。
放射性物質の処理には気の遠くなるような
時間とリスクがかかる。将来の解体時にも、もの凄い費用とリスクが…。
何を言おうとしているのか。言ってしまおう。その挙げ句、実は結局原発はCO2のたいした削減にもならないのではないか、と思うのだ。
電力会社のCMは昔は「原発はCO2を排出しません」と謳っていたのが、今では「原発は“発電時”にCO2を排出しません」とさりげなく修正しているみたいだ。発電時以外のCO2排出の量の事は言えないのだろう…。ウランの採掘、輸送、毎秒百数十トンの温水、燃料の再処理、何万年もの減衰期間がかかる放射性物質の管理。それらが生み出すCO2は?
もうひとつ言ってしまおう。結局は原発はCO2問題を傘に着たビジネスだ。そう、最終的にはどこかの金持ちの財布を太らせるだけなのだ。それと、核兵器の材料をストックしておく事による地政学的な目論みもある。こんなの、ろくな発想じゃないと思う。
この辺の事情は大人なら誰もが判っていると思う。けれど、そう言った所で今の社会は経済中心の流れで動いているのだから、関わってる人にしたって、私個人のせいじゃないよ、となるのか。仕方がないのだろうか。いや、私たちひとりひとりの無関心、本当にそれでいいのか。
それが、矢面に立たされた人たち、の犠牲の結果だなんて悲しくないだろうか。
これが不幸でなくて何なのだろうか。
何度でも繰り返そうと思う。
原発にnoを。不幸の源泉を塞がなければ。
最後に。やっぱり本当はこんな暗い文章書きたくない…!