今年の前半は阿蘇や松本に行ってきれいな泉を見た。
ああ、泉の傍に住みたいなあ。
と思うけど、こうしてそこから遠くにいるのも悪くない。
もし、自分の心の奥に泉がこんこんと湧いていたら、といつも妄想する。
僕は草むらをかきわけて毎日そこまで行ってその泉の水を汲むような感じで絵を描きたい。
冷たくて澄んだ水。
本橋成一さんの映画の「アレクセイと泉」で描かれていたように遠い過去と繫がっている水。
出来るならそうして描きあげた絵を誰かに見ていただきたい。
だれもが自分こそはおいしい泉の水が飲みたいと願いながら他人にはこっそりと水道の水をペットボトルに詰めて売りつけているというような、そういう世の中になってしまったのは何故なんだろうと考えている。
僕は何となくどうしてなのかわかるような気がする。
とても絵を描くことにも関係が深い。
でも今ここには書かないでおこうと思う。
ところで、目の前に見える風景というのは考えてみたら過去の運動の結果がかたちになったものなのではないか。だから過去がこうして作りあげた風景というのはひとつの亡骸のようなものと言えるかもしれない。
亡骸の山がひとつの不思議と美しい景色を作り上げる。
それはただ安易にエンジョイしてはいけない感じがしないか。
その、目の前の景色というものは。
だから僕は世界を楽しむその前にためらいのような感覚が欲しいと思っている。
シャッターを押す前にいいんだろうか。と自分の心に聞くような。
ページをめくるまえにいいんだろうか。
そしてもちろん、絵を描きすすめながらもそうする。
そういう感じだ。
ためらいがあるほうが案外思わぬ所にジャンプ出来る。かも。