久々のblackbird books。
店内の一番奥まった場所に絵を飾っていただいた。
初日ということでお店へ。でも一日中、本を見続けてあっという間に時が経ってしまった。
この店の客は素敵だ。詩集を購入される方が多くて、わたしも大崎清香さんの詩集と写真集のdes oiseauxシリーズのうちの一冊を入手した。
この店の客は素敵だ。詩集を購入される方が多くて、わたしも大崎清香さんの詩集と写真集のdes oiseauxシリーズのうちの一冊を入手した。
みんな詩集ってどういう時に開くのかなあ、とぼんやり思ったが、店内に並ぶ素敵な写真集の数々をめくっていると、写真集を取り出して眺める時間に似てるのか、と思った。自分の願う目的や解決とは違う地点に接続する。
それに微細さの内にこその、知らなかった違いを知る。
(これこそは戦争の反対なのだ。ものの微細さへの扉の存在がわからなくなるから戦争の方に行くのだから)
詩集、写真集を揃えることに特に力を入れているように見えるblackbird books。絵を眺める時間もそういうものであってほしい。
わたしは絵を描くときは、「こういう〜がいいと思うんだ」とか「こういう世界に生きていきたい」という政治的な考えは自分の心中には確かにあるのだけど、それをストレートに表すのではない。制作は意図を二重三重にパイ生地に包み込み、焼いてしまうような具合である。
そうしてわたしは画面上で余計なことをしないように、ただ絵の具のタッチに専念する。
不思議なことに、むしろそのようにして描いた方が、今現在の、このライブ感や思っていることが伝わるし、しかもより望ましい形でゆっくりと伝わる。
そう言い切ってしまうことは無理だけど、絵を見てくださる方々の反応をみているとやはりそのようである気がする。
そう言い切ってしまうことは無理だけど、絵を見てくださる方々の反応をみているとやはりそのようである気がする。
「それ」は簡単に言葉やグラフィックで表せるほど明確であってはいけなくて、そこを気をつけることで表現が指図となってしまったり、あるいは安易な誘惑のような行為から一歩引くことができる。だからこその、この絵という表現の面白さである。