2/08/2025

8. Février



ここ数日の雪で電車やバスが停まってしまう。
寒いし、あれほど好きだった雪が憎くなる。(しばらく仕事場に行けていない)
でも立ち止まってみると、やっぱり雪や背景にひろがるブルーグレーは趣があって、寒さの手のかじかみなども案外悪くない。

目的やコストだけを見て生きることは幸せな生ではない。
そのことは思い出すには空白の時間を趣と捉え、かつ楽しむ余裕が必要だ。
しかし、そのためには多くの鍛錬や条件が要求される。

今いるこの世界のルールは、人々が趣を楽しむということをできないようにデザインされていると断言できる。システム側から見ればひとは単なる導電装置の中の粒子であり、ロボットや部品ですらない。

表現者としての自分を観察すると、政治情勢に無関心なふりをしながら、そのシステムでいいのか、とか、こういう心の扱いは良くないのではないか、とその作品に精一杯の余白を流し込み、遠回しな形で「過程」にある趣の大切さを世間に伝えているように見える。この状態で足踏みしていることが悔しくて、でもその先は見えてこない。

でも、まずはこの状態がわかっているかどうかが大切で、そうでもなければ、飼い慣らされているまま、そのまま終わってしまう感が半端ない。

2/04/2025

3. Février

 

マチエールは漆喰。以前より下地に何かを使うことが増えた。
庭の土や灰も使うことがある。
ストーブから取り出した炭でドローイングをするのも面白い。
表面に凹凸があると何もない状態より描き始めやすい。

この冬の光源の中で捉えておきたい気配がある。
まだ春は来てほしくない。

1/15/2025

トークイベントのお知らせ

2月8日、東京の青山ブックセンターでトークイベントが行われる。

この「まど・みちおの絵本」シリーズでわたしが担当したのは「水はうたいます」という作品。
編集者の松田素子さんとたくさん議論してつくった自分的大満足の作品。
その後続刊される作品もどれもすごくて圧倒される。
いつかこの画家さんたちにお会い/再会してみたいなあと思っていたところ。
東京にいらっしゃる絵本好きのみなさま、このまたとない機会。ぜひどうぞ。

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2月8日 夕方6時(開場5:30)から
場所:東京の「青山ブックセンター」
「まど・みちお没後10年記念 まど・みちおの絵本シリーズ  スペシャルトークイベント」を開催します。 

登壇者は、ささめやゆき nakaban   あずみ虫 きたむらさとし 
の画家4名。松田素子が編集者として司会をつとめます。 

1/14/2025

14. Janvier


この冬。なんだか埋めもの?のような作業ばかりしている。すうすうと風が入ってくる壁の隙間を木やパテで埋め、空いた庭の穴(狸が掘った)を川から運んできた砂で埋め、自分の歯を歯医者さんに埋めてもらった。

絵を描くスイッチが入らない。のでまずはパネル作りをする。たてものの修繕用に買った材が結局パネルになっていく。電動工具が吐き出した木屑をブロワーで飛ばす。最近これが楽しみ。

ある日、あまりに冬の山がきれいなので山に入ってみた。
それでいろんな発見があったので気に入って、ほぼ三日に一どのペースでどこかの山に入っている。
この辺の山のふもとは全て墓地になっていて、その参道の奥に道が続いていて神社があったり、荒れ果てた登山道に入り口があったりする。

この町でこれらの墓を通り抜けて山に入っていく変なひと、わたししかいない。
地元の人に聞くと「昔はみんな山へいっとったけどねえ、今ごろは山は怖いけえー」という。松茸とか獲れるらしい。
山はあまりにも無人で、その結果降り積もった葉っぱで道はふかふかでベッドの上のようだし、道自体が崩れてなくなっているところもある。
人が通らなくなると道は消滅する、と当たり前のことを思った。

最近は植物の中でも椿が好きで色々研究していたが、山には野生の椿がたくさんあって嬉しくなる。鹿のツノとかも転がっている。アトリエに飾ったらかっこいいかなあと思うが拾う勇気がない。それより薪になりそうな枝を集める。
わたしの絵本、「トラタのりんご」のように廃業の果樹園が山中にたくさんあることを知った。棚田式になっているが石垣も崩れかけている。柑橘類は皮が厚いので動物も食べない。

この冬は西日本はいつもより暖かくもあり、雪が降らない。でもこれを小春日和って呼びたくなるわけでもないような違和感がある。
ミツバチは冬眠してたのに、暖かい冬のせいかまた働き始めている。このまま春になってしまって大丈夫なのだろうか。

12/24/2024

12/12/2024

12. Décembre

 

すてきな会食が延期になってしまったので、わたしは畑で穴を掘っていた。
さあ、大きめサイズの石を掘り上げますよ。



まず石の周辺に砂利を流し入れる。


それから鉄の棒でグイグイ。
すると石が動いてその底面に砂利が流れ込んでいく。
そうして石が浮き上がってくる。

砂利は空いた穴の土壌改良も兼ねてボラ土が良いであろう。
ボラ土とは宮崎県の火山由来の砂利で、ミクロの空洞がたくさん。
粘土質の土を強制的に生き返らせる。


あっけなく石は取り出せた。
ボラ土の溜まった穴に山から採ってきた朽ち木を投入。


ザクザクと砕き混ぜて行く。使っている鉄の棒は山芋掘りといって、わたしが最も気に入っている農具である。こいつは全部鉄で出来ている。瓦なども砕いて混ぜて行く。

作業がひと段落したら、石の上で小さく祝う。これ重要。
石を掘り上げてお茶を飲むことになるとは思っていなかったし、石も思っていなかった。
しかしこうなった。
このように予想外の事態を発生させることが大切なのである。



11/30/2024

30. Novembre 「お坊さまと鉄砲」

 


映画「お坊さまと鉄砲」。
絵を担当させていただいた関係で試写会に呼んでいただいた。

わあ、やっぱり劇場で観ると全然ちがう。
現地の空気を吸っているようだ。ブータンの農村風景は美しく、土や石の壁、積み上げられた薪に目を奪われる。
しかし最もグッとくるのは人々の顔。
ひとり残らずいい…。あの良さはなんなのか。

それと、いいなと思ったのは「道」かな。
若い僧が歩いていく、車やバイクが追い越していく、子どもらが駆けていく。
美しいそばの花が揺れる。
それぞれに間違いなく時間の流れの質の違いがあって、そんな道が家々や市場や寺院、山の奥へと繋がっている。
道は世界中にあるのに、このブログを描いているこの窓の外にも見えるのに、そんなことを考えてもみなかった。
そういう素敵な舞台の上で人々があれこれ、ちょこちょこいろんなことをしている。それがなんとも愛おしい。

人々の織りなすストーリーの中心に選挙制度や議会制民主主義への問いかけがあるので、わたしたちが、さまざまな選挙に参加したり目撃したりした今年に公開されることも意義深いこと。

この映画、12月から公開されるので、ぜひ観ていただきたいです。

劇場情報>

11/27/2024

27. Novembre




blackbird booksでの個展「記憶の庭園学」

これらの風景画こそはいいもので、わたしの個人的最大の発見で、遠い場所を描けば描くほど、リアルに自分の立っている地点を意識させてくれる。ここからどこに行こうかという気持ちになる。

なんとわたしも50歳になってしまい!
自分の命が途絶えるまで描き続けるのか。それともやめてしまうのか。
まだまだ旅の途中という感じっスね。(←無理に性格変えていくつもりか)

会期は12月1日までなので、もうすぐ最終日。よろしくお願いします。
美しい本がぎっしり詰まっている夢のような書店。blackbird books。>

11/16/2024

美容室"upas"


北海道、札幌の北大植物園の隣にある建物の一室にちいさな美容室ができた。
それが桑原あずささんのお店upas(ウパと読む)。
光栄なことに、ロゴマークを担当させていただいた。
ゆっくりじっくりやりとりをさせていただき、できあがった横顔。
北の国の凛とした女性の佇まいを思いながら制作。

美容室の窓からはパラパラと降る落ち葉とエゾリスの遊ぶ姿が見えるそう。
こちらがwebサイト。すてきだ。

11/11/2024

11. Novembre



久々のblackbird books。
店内の一番奥まった場所に絵を飾っていただいた。 
初日ということでお店へ。でも一日中、本を見続けてあっという間に時が経ってしまった。
この店の客は素敵だ。詩集を購入される方が多くて、わたしも大崎清香さんの詩集と写真集のdes oiseauxシリーズのうちの一冊を入手した。








みんな詩集ってどういう時に開くのかなあ、とぼんやり思ったが、店内に並ぶ素敵な写真集の数々をめくっていると、写真集を取り出して眺める時間に似てるのか、と思った。自分の願う目的や解決とは違う地点に接続する。
それに微細さの内にこその、知らなかった違いを知る。
(これこそは戦争の反対なのだ。ものの微細さへの扉の存在がわからなくなるから戦争の方に行くのだから)
詩集、写真集を揃えることに特に力を入れているように見えるblackbird books。絵を眺める時間もそういうものであってほしい。

わたしは絵を描くときは、「こういう〜がいいと思うんだ」とか「こういう世界に生きていきたい」という政治的な考えは自分の心中には確かにあるのだけど、それをストレートに表すことはしない。制作では意図を二重三重にパイ生地に包み込み、焼いてしまうような具合である。

そうして、わたしは画面上で余計なことをしないように、ただ絵の具のタッチに専念する。
不思議なことに、むしろそのようにして描いた方が、現地点のライブ感や思っていることが伝わるし、しかもより望ましい形でゆっくりと伝わる。
そう言い切ってしまうことは無理だけど、絵を見てくださる方々の反応をみているとやはりそのようである気がする。

「それ」は簡単に言葉やグラフィックで表せるほど明確であってはいけなくて、そこを気をつけることで表現が指図となってしまったり、あるいは安易な誘惑のような表現から一歩引くことができる。だからこその、この絵という表現の面白さである。