現在、とある県 (詳細は明かしてはならないのだそうで仮にオカバンゴキビダンゴ県としよう)の小学校限定のライブツアー中。
演奏が終わると、子どもたちはその熱狂も幻だったかのように教室に帰って行く。
NyaboSsebo & nakaban "Ponto Nodal"
やっと告知ができる。嬉しい。
広島の本通り商店街、傘のフクマで、NyaboSsebo & nakaban アルバム"Ponto Nodal"リリースライブ。アルバムの先行発売も。
このアルバムはCD、7篇の映像のダウンロードカード、アートブックが特製函におさめられた特別な仕様。
NRT(!)から7.15リリース。
ぜひライブにお越しいただけたら。東京公演も予定。
チケットはこちら>●
責任を取らされることを恐れる社会だから、エビデンスや統計というデータがとにかく一番偉くて、社会の基準になっている。
昨今、学者や医者がメディアで大活躍しているのはそのため。
何かをしようとすると「何かあったらあなた、責任取れるのか?」と、言われる社会だ。だからデータを盾に責任逃れをする。
そのデータが捏造だったりするわけだ。データは政治に利用される。
感染だ、病気だと盛んに言われているけれど、現代医学が150年前に作った狭いルールに過ぎない。ウィルスという小片は「情報」と見なした方がいい。
だから生命は「情報」のレセプターをタンパク質にもつわけで、そうでなければ、移り変わっていく世界の中で自己を最新状態に保てないから。
これは無限の相の中の旅をしているようなものなのだ。それだけで充分に生きている意味があるのだ(死せども情報=風の知らせ、となって循環すると言うことだけど)。
医者や政治家の言うことばかり聞いていると、足枷がどんどんきつくなって旅を中断させられる。人生楽しむことを忘れさせられる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0cf1122ab31210e8f5fd8bb14e8eec53e58e50e6
世界のトレンドは、こうした悪に無反応なロボット人間を育てる傾向。
ここが頑張りどき。恐れずに話題に出して。怒れ。
恐怖感を植え付けられ、正義感をくすぐられ、誘導させられる。
考えなくさせる。スマホに縛り付け。
良くない。
一ヶ月も先だけど、7/2日はNyaboSsebo&nakabanで東京にてライブ。
"Recanto"
先日、こども図書館で絵の先生。
果物を描いたのだけど、果物の下に色紙を置いたのがポイント。
反射光が意外と物体に影響を与えているね。(手のひらを色紙にかざして観察)
一つだけ覚えて帰ってほしかったのは、その「物」には周りの色が思った以上に映っているということ。
意識をモチーフに集中するのはよいことのようで、その周りが見えなくなってしまうかも。
りんごいろ、みかんいろ、それらは便利な言葉だけど、思い込みの原因でもある。
少しづつ自由になっていこう。
本を読むという体験も、ぺージの中だけではなくて、その周りの環境が大切。
広島の川に囲まれた、美しい公園の中のふたつの図書館を移転して、駅近のビルの中に入れてしまう計画があるのだけど、わたしはもちろん反対。
さまざまに課せられたルールがある。報道や出版物はもちろん、他のひとの意見、どう暮らすか、何を着て何を食べるべきか、そして世間の雰囲気に至るまで、これらはみな政治で、これに深入りすることは、本来ひとつである自分と世界との間に「不純物」を挿入すること。
コンセントを抜けば消えてしまう、ネットの会話の中で、何かこのひどい世界のために、と願いながら、そのひとの心の寂しさは、うめられない。
その得体の知れない不純物につけ入られ、本来の感覚を鈍らせ続けている。
ひとは大人になると、感覚をきらめかせる機会を永遠に後回しにし続けるのだろうか。
自戒を込めて書いてみた。