9/27/2021

Umitaro ABE and nakaban presents « Tentopathie »





Umitaro ABE and nakaban presents « Tentopathie » 

金沢で開催されるイベント「市役所の第二本庁舎でゴミのことなど考えるマーケットしてみます」(http://otomekanazawa.jugem.jp/?eid=534)にお誘いいただき、かねてから画家・nakabanさんと企てていた秘密のパフォーマンスが実現します。その名は「Tentopathie=テントパシー」。会場に現れるテントの奥で、音楽家と画家が、あなたに合わせて音と画材を調合いたします。ええ、それは絶えて久しき藝術療法。たったひとりのための、そしてほんのひとときのパフォーマンスです。


・日程:2021年10月9日(土)
・会場:金沢市役所第二本庁舎(金沢市柿木畠1-1)
・料金:1人1,000円(ハーブティー付き)
・時間:前半 12:00~ /後半 14:00~(整理券配布時にご希望の時間をお選びいただきます/お一人あたり5分程度)
・協力:橋本建築造園設計、mogo

*当日10時より、会場の金沢市第二本庁舎にて整理券を配布いたします。
*先着順でご希望の時間をお選びいただき整理券をお渡しいたします。
*整理券は前半と後半それぞれ定員に達し次第、受付終了となります。
*お選びになった時間帯(前半=12:00~13:20頃/後半=14:00~15:20頃)の間、会場内で待機の上、順番をお待ちください。
*料金は整理券と引き換えにお支払いいただきます。


…..

金沢 10月9日。阿部海太郎さんと。
「テントパシー」という未知の職業を掘り起こしてしまった。
18~19世紀に、ある種の藝術療法のようなものが存在したと私は信じていて、実在の可否はさておき、それら歴史の間に消え去ってしまった何者かへのオマージュである。
今回、藝術の都「金沢」の、さまざまな魅惑の露店の中に紛れこませていただき、
天幕の中で、お一人だけのために、限られた時間ではあるが、特別なひとときを演出させていただく。
世界最小のあっという間のコンサート、ティーサロン、音楽室、アトリエ。

9/24/2021

24.Septembre



稲妻を見たら「稲妻は上空にだけあるのか」と言うことでしょう。
そうではありません。
夏のあいだじゅう、植物が受精するとき、草原、森の至るところに稲妻が光っています。
そして私たちのなかで、いつも稲妻が走っています。
稲妻が走るときに見られる現象が、内的に私たちを貫きます。
私たちの思考が、私たちの内なる稲妻なのです。

(ルドルフ・シュタイナー 「人体と宇宙のリズム」 西川隆範 訳)


R・シュタイナーは抜群に冴えていたと思う。

【concept】は「考え」だけど、【conception】になってくると「受胎」と言う意味になるのだ。
アイデアとは、目に見えない、内的な微小の稲妻を束ねたもの。
このアイデアは自分が生み出した、などと自慢したくなるが、やはりそれは世界からの贈り物にすぎないのだろう。

植物の根や葉脈、菌類、河川、動物の神経、毛細血管…
稲妻に相似しているものはやっぱり呼応していると言うことなのか。
子どものころから不思議だったよね。

みなさんは内的な「通電」を良くするために何かを心がけているだろうか。
(わたしは、特にない 笑)


一つ、余計なことを書くと、現代人がデジタルデバイスにがんじがらめになってしまうのは、やはり自分の内的な「稲妻活動」をサボりたくなり、それを身代わりでやってくれるように錯覚する存在があるものだから、そこについつい甘えてしまうせいなのかもしれない。


9/22/2021

22. Septembre



mRNAワクチンを打つと遺伝子組み替え人間になってしまうかも?

という一般人の心配は「センモンカ」に早々に冷笑的に否定されて、あのワクチンは世界中で打たれまくった。
しかし素人の予感が当たるかもしれないこともあるわけで、ここにきてRNAの逆転写が本当である可能性が出てきたようだ。

ヒトRNA逆転写酵素シータ 
https://youtu.be/mgJRvptJqSU

RNAの逆転写が起こると一時的な傭兵のはずだった、スパイク・プロテインその他公開されていない何かがずっと体に居座ってしまうかもしれない。

「そんなことあるわけない」
そう断定したその時点で、その人物は科学を捨てて政治と商売の下僕に成り下がっていると疑われても仕方がない。

聞いたところではフランスなんかではワクチン10回分のスタンプ帖があるらしい。
ワクチン接種を終えたひとも「まだ」1回2回なのでこれ以上は打たない方がいいんじゃないかな?


9/15/2021

「ダーラナのひ」

 


11月にできる絵本(偕成社:刊)で、いまは色校正をしているところ。
この「ダーラナのひ」は焚き火の絵本。

焚き火という主題に導かれ、心に去来する物語を書きとめながら、自分がほんとうに願っていたことがらに触れたと思った。その願いのコレクションは、もし誰かほかのひとなら、きっと笑ってしまうくらいに地味なものの集合体で、でもそれは確かに自分にとってなくてはならないものという手触りであったのだ。そういうものを可能な限り絵本に書(描)きたいと思った。

さて、ダーラナの焚き火のことを、絵を描きながら追体験しただけでも、涙目になるようなあの煙たい灰にさらされ、頬が火照ってくるような気がしたものだ。(取材で焚き火をしたのだが、その後数日、煙の匂いが頭髪から抜けなかった。あれは良かった)

火が勢いづいて炎となり、日常ではあまり聴くことのない、あの炭素のはじけるすてきなノイズの音楽が去っていくと、その後に静かな火との対話の満ち足りた時間が訪れる。
ここがどこであってもどうでも良くなってしまうような、そのなつかしさをわたしは他に知らない。自分が決して知らないはずの、祖先の辿ったであろう旅路に立っているような錯覚。

もしかしたら、あなたやわたしはずっと旅をしていて、いま現在のここもまたいっときの野営地に過ぎないのであり、旅の道は果てしなく遠くに続いているのではないだろうか。

なんて、心が遠くに行ってしまいそうなのでこのへんで。
まだできていない絵本なのに、あれこれ書いてしまった。
11月に本屋さんで見かけたとき手に取っていただけたら嬉しい。