9/16/2020

石巻 まちの本棚

宮城の石巻にて、「石巻 まちの本棚」というイベントで、山尾三省の詩集「びろう葉帽子の下で」の原画を展示していただいている。
26日にはわたしもお邪魔することになって南陀楼綾繁さんとお久しぶりのトーク。だけじゃなくワークショップもすることに。なんと。
トークとワークショップのテーマは「ブックカバーを発想する」
勢い余ってタイトルを真面目につけてしまった。でもそんなに堅苦しい内容にはならないはずなのでお気軽にどうぞ。
自分にとっても久々の遠出、本好きな人たちとの出会い。楽しみにしてる。

このころまた本の装丁に関わる仕事をいくつかしていて、本を手にとって開く人たちの姿を思い浮かべている。

9/01/2020

「京都六曜社三代記 喫茶の一族」












「京都六曜社三代記 喫茶の一族」
京阪神エルマガジン社刊

取材・文:樺山聡 
写真:小檜山貴裕 イラスト:北林研二 
装丁:横須賀拓


発売されたばかり。
京都の喫茶店「六曜社」の三代にわたる物語が本になった。

息をつかせず読んでしまう本だった。時間旅行だ。
カウンターの向こうに、周りに、こんなすごいドラマがあったんだな。

3代目の薫平さんの章になるといよいよ自分の時代と重なってくるので、ちょっと感情移入して読んでしまう。

オクノ修さんの「ランベルマイユコーヒー店」の絵本をつくらせていただいた関係で、恐れ多くもわたしの文も引用されているのだ。ちょっとだけね。

読み終えるとドラマの現場に今すぐにも行きたくなる。
素晴らしい本だ。みなさんもぜひ、おいしいコーヒーと共に。


8/29/2020

29. Août



まだまだ暑い。頭がぼーっとしてくる。
描きかけの絵を少し離れて眺める。
この「眺める」という行為は、不思議なものだ。

描きかけの絵を眺める。
他のひとからみたら、画家が絵をどのように改善しようかと分析しているように見えるかもしれないが、もちろんそうとは限らない。
たいてい、眺めながらぼーっと休息したり、関係ないことを考えたりしている。

風景を眺めるとき、ひとは目の前の風景をとくに分析しているわけではない。
そこにいることをただ感じているし、あるいはそこに本当はいないかもしれない自身の不在を感じている。

それは「見る」とは性質が違うのである。しかし「見る」と連続しているようなところもある。
ひとは「眺める」ということの意味を自分で解っていなくてもつい、そうしてしまう。

個人的には、「眺める」とは、何かの対象の前に佇むような、時の流れの中の空白につい迷い込む、というようなイメージである。

ひとは「眺める」ことをじょうずに説明できない。そしてそれを使いこなせない。

8/23/2020

23. Août




最近アメリカの食養学の大家 Sally Fallon Morell氏のメルマガをとっている。
新しいブログ記事がアップされると告知が届くのだ。

コロナの記事も多いが、役立ちの栄養学の話が多い。
彗星と伝染病がテーマの記事や、長寿についての名著「ブルーゾーン」の土地をめぐる記事があったり、面白い。

英語はあまりできないのでDeepLで読んでいる。
外国語を読むのはつらいけど、医学の本とかフランス語の哲学とか、和訳のほうが漢字や熟語が難しくて、むしろ外国語のほうがわかりやすいのではと思うことも。ほぼ翻訳ツールで日本語にして読んでるので偉そうなことは言えないけどね。

今日届いたのがタイムリーにも、パスツールと炭疽病の記事。
この頃考えていたワクチンの起源のあたりのことだったので読んでみたぜ。(←)  


医学は昔は多数の選択肢があった。 
ナチュロパシー(Naturopathy) 自然療法
オステオパシー(Osteopathy) 整体療法
ホメオパシー(Homeopathy) 同種療法
サイコパシー(Psychopathy) 心理療法
アロパシー(Allopathy) 薬物療法
ピクトセラピー (Pictotherapy)  絵画療法

ごめん。最後だけ嘘である。

昔は患者はそのどれに診てもらうか選べるようになっていたのだが、時代が下るにつれ、アロパシーが一番儲かるので、金とパワーを持ちすぎて今に至る。

それ以外は代替医療とされ、さらにその座も追われ似非医学とされるのは科学の発展による影響が大きいが、これは仕方がないことでもあるかもしれない。なぜなら証拠があるものは強く、自然の恩恵といった目に見えない証拠のないものは今の紋切り型教育社会では弱者だからである。

また、20世期のある時点で製薬会社のオーナーともなったR家の石油王 (薬は石油で作られる) がメディアを駆使し徹底的に他の療法を潰したから、という要因も大きい。

病院が好きな人は少ない。病院がちょっと怖いと感じる理由には、案外そういう歴史の闇の部分を感じとってしまうから、というがあるのかもしれない。
あるいはお金のことばかりで本当に治してくれるのかしら、とか。

もちろん病院に行けば診てくれるお医者さんや看護師さんには感謝している。その人たちの気分を害したくて書いているのではないのだが。

表舞台から追われた医療と目下一人勝ちのアロパシー。
その運命の分かれ道はパスツールの炭疽病ワクチン実験、Pouilly-le-Fortの実験(1881年)だったのではないだろうか。


Sally Fallon Morell氏のブログより

Anthrax, Arsenic and Old Lace  元記事  
炭疽菌と毒薬と老嬢* 


炭疽病は、炭疽菌という細菌によって引き起こされる感染症である。
皮膚、肺、腸、注射の4つの形態で発生する。症状は、感染してから1日から2ヶ月以上経過してから始まる。 

皮膚型では、特徴的な黒い水疱が現れる。
吸入型は、発熱、胸痛、息切れを伴う。腸管投与の場合は、血液を含む下痢、腹痛、吐き気、嘔吐を伴うことがある。 注射剤の場合は、発熱と注射部位の膿瘍を伴う。

炭疽菌は、しばしば感染性の動物製品に含まれる細菌の胞子との接触によって広がる。 接触は、呼吸、食事、または皮膚の損傷部分を介して行われる。 炭疽菌は通常、人や動物の間で直接感染することはない。

稀な病気ではあるが、人間の炭疽菌は、発生した場合、アフリカと中央アジアおよび南アジアで最もよく見られる。 炭疽菌が皮膚に感染した場合は、かくれ者病として知られています。歴史的には、吸入性炭疽菌は羊毛を選別する人の職業病であったため、ウール・ソーターの病気と呼ばれていた。

バチルス・アントラシス(炭疽菌)は、約1×9μmの大きさの棒状のグラム陽性の遊走性嫌気性細菌である。 通常は胞子状になって土壌中に存在し、この状態で何十年も生き延びることができる。

今日では、先進国では感染した動物がほとんど残っていないため、この感染形態は極めて稀なものとなっている。2008年11月には、未処理の動物の皮を使って仕事をしていたイギリスの太鼓職人が炭疽菌の吸入により死亡した。

炭疽菌は、19世紀のフランスやその他の地域で大きな経済的課題となっていた。羊は特に被害を受けやすく、ワクチンの製造を調査するために国家資金が投入された。

ドイツ人のライバルであるロバート・コッホが原因物質である炭疽菌を発見(1876のこと)したと主張した後、ルイ・パスツールはこの研究に数年を費やした。

1881年5月、パスツールは、彼の予防接種の概念を実証するために、Pouilly-le-Fortで公開実験を行いました。

25頭の羊、1頭のヤギ、数頭の牛の2つのグループを用意した。

一方のグループの動物には、パスツールが用意した炭疽菌ワクチンを15日間隔で2回注射した。最初の注射の30日後に、両群とも生きた炭疽菌の培養物を注射した。
ワクチンを接種していないグループの動物はすべて死亡したが、ワクチンを接種したグループの動物はすべて生存した。
この明らかな勝利は、地元や国内外のマスコミで広く報道され、パスツールを国民的英雄とし、医療現場での予防接種の受け入れを確実なものにした。


これが公式な話だ。
では、もう少し詳しく見てみよう。


ジェラルド・L・ガイソンが著書『ルイ・パスツールの私学』の中で分析した彼の個人的なノートと、白熱した新聞報道を比較すると、パスツールの公の勝利は違って見える。19世紀のフランスでは、炭疽菌が家畜、特に羊の間で大きな問題となっており、ワクチンを見つけるための努力は、ルイ・パスツールをはじめとする当時の科学者たちを、栄光と金のための熾烈な競争に駆り立てた。

パスツールは、すべての病気の原因は微生物ではないにしても、ほとんどの病気の原因は微生物にあるとする細菌説を推進した。この細菌説によって、科学者たちは、細菌を弱めたり、弱めたりした形の細菌を含んだワクチンで病気を素早く治すことができるようになった。

炭疽菌のワクチンを見つけるためのこれらの初期の試みについて読むと、モンティ・パイソンと愚かな科学省のイメージを思い起こさせる。

一部の科学者は、微生物を毒、重クロム酸カリウム、または消毒剤であるカルボン酸にさらすことによって、「減衰」(弱毒化?)を試みた。別の者は、感染した動物の血液を加熱して、感染していない動物に注射することで減衰したワクチンを作ることができると考えた。

ある者は鶏ガラスープの中で細菌を煮ることを支持し、ある者は尿の中で細菌を煮ることを支持した。

パスツールの同僚の一人は、炭疽菌の培養物をガソリンの蒸気にさらすことで「萎縮」させようとしました。パスツールは、炭疽菌を「大気中の酸素」に晒すことで、炭疽菌の病原性を破壊しようとしたが、これらの理論はすべてジョン・クリーゼのような重厚さで追求された。

これらの英雄たちにとっては残念なことに、どのアイデアもあまりうまくいかなかった。

パスツールのライバルである獣医のトゥワッサンは、加熱血液に着目し、当初は有効なワクチンになると主張していた。しかし、その後、実験動物を死なせてしまうなど、結果に一貫性がないことに気づき、カルボリック酸を加えるようになったが、これも期待に応えられなかった。パスツールはノートの中で、ウサギ、モルモット、サル、犬を使った実験でこのような結論が得られなかったことに不満を表明している。

魔法のワクチンはつかみどころがなく、パスツールは「1880年1月に炭疽菌ワクチンの『発見』を発表するには、例外的にほとんど実験的根拠がなかった」(Geison、167ページ)。 パスツールは1881年2月にも同様の発表を行い、3月には羊を使った予備実験で成功したことを報告している。ガイソンの報告によると、「......パスツールの公表報告書の大胆な自信に満ちた口調は、新しいワクチンの実験結果を誇張していた。実際、彼の実験結果は『明らかに結論が出ない』ままであった。(Geison, 170 ページ)。しかし、パスツールは、同僚たちの落胆をよそに、Pouilly-le-Fortの挑戦を「衝動的に」受け入れ、1881年4月28日に詳細で厳しい実験計画書に署名したのだ。 

もう一つの問題は、パスツールが研究していた病気に関連した微生物、例えば炭疽菌や狂犬病を注射して動物を病気にすることができなかったということだ。
炭疽菌の場合、健康な動物を病気にして死なせるためには、"病原性炭疽菌 "を注射しなければならなかった。パスツールは、「病原性」微生物を他の動物を介して生物を「連続的に通過させる」と呼ばれる方法で、より病原性の高いものにした-炭疽菌の場合には、彼はモルモットを使用した。

炭疽菌に関連した微生物を注射し、動物を犠牲にして、その血液や組織を注射し、おそらくカルボリック酸や重クロム酸カリウムなどの毒物を混ぜたものを別の動物に注射した。
こうして、彼は "病原性炭疽菌 "と呼ばれるものを考え出したのです。狂犬病については、「狂犬病の犬から無菌状態で抽出した大脳物質」を注射し、穴を開けて健康な犬の脳の表面に直接接種することで、病気の症状を作り出すことができたのである。狂犬病の犬から無菌状態で抽出し、頭蓋骨に穴を開けて健康な犬の脳の表面に直接接種した。この治療法は、時には犬が口で泡を立てて死ぬようにした(Geison、189ページ)。

炭疽菌の実験で挫折していたパスツールは、医学アカデミーに誘われてPouilly-le-Fortでの有名な公開実験に参加することになった。ライバルのトゥワッサン(ただの獣医で、真の科学者ですらない!)の息のかかった彼の敵は、成功不可能であろうと判断した実験のプロトコルに彼をサインさせたのである。

Geisonは、パスツールが使用したワクチンの性質について、特別な理由はなかったものの、意図的に国民を欺いたという事実を大きく取り上げている。 プロトコールには、パスツールが動物に接種するワクチンの種類が明記されていなかった。 パスツールは、鶏コレラのワクチンをどのようにして作ったかについても、以前にも同様に慎重だった。

重要なポイントは、彼の初期の実験とは異なり、Pouilly-le-Fortでの実験は完璧に機能したことです。ワクチンを打った羊はすべて生き、ワクチンを打っていない羊はすべて死んだのだ。勝利!

パスツールはズルをしたのか? パスツールのノートによると、パスツールは時に不誠実であり、不誠実であったことがわかる。彼はまた、自分の利益を守るために非常に積極的で、操作とレトリックで何人かの敵を破壊した。

ワクチンを接種していない羊の死は簡単に説明できる。
彼は「病原性炭疽菌」を使った、つまり毒を盛ったのだ。 ワクチンを打った羊には? それら全て。 

ワクチンを接種した羊たちに「猛毒の炭疽菌」を注射したのか、それとも動物を殺すには至らなかった「単なる炭疽菌」を注射しただけなのか。

フランス人が言うように
"Il y avait quelque chose de louche"
何か怪しいことが起きていた。

(訳注:もちろん、このあたりは憶測で書かれている)

そのテストの後、パスツールの研究室に炭疽菌ワクチンの供給依頼が殺到した。しかし、パスツールと彼の助手たちは、使用したワクチンの種類についての詳細を明かそうとしなかった。それにもかかわらず、パスツールの研究室はすぐに商業的炭疽菌ワクチンの製造を独占し、積極的に外国への販売を追求した。パスツールと彼の研究室は、1880年代半ばに炭疽菌ワクチンの販売で年間13万フランの純利益を得た。

問題は、パスツールが不正行為をしたのではないか、と疑われるもう一つの原因は、ワクチンが効かなかったことだった。

「Pasteur: Plagiarist, Imposter パスツール : 盗作者、偽者」の著者のR.B.ピアソンは、パスツールがフランスの町から、また遠くハンガリーから、前日にワクチンを打った死んだ羊の死体が散らばった畑の苦情の手紙を受け取るようになったことを指摘している。 ハンガリー政府によると、「最悪の病気、肺炎、カタルーニャ熱などは、もっぱら注射を受けた動物を襲った」という。

トリノで行われた1882年の裁判では、予防接種は無価値であることが判明しました。ロシア南部では、炭疽菌ワクチンは、それを受けた羊の81%を殺した。

ワクチンの使用は徐々に衰退した。しかし、ここに不思議なことがある。
炭疽菌の発生も衰退したのだ。今日では珍しい病気になっている。では、19世紀の間、動物、主に羊の死の原因は何だったのだろうか? 

羊のディップ(羊の体を洗う消毒薬)について考えてみよう。世界初の羊のディップは、1830年にスコットランドのコールドストリームのジョージ・ウィルソンによって発明され、製造されました。 最も成功したブランドの一つは、1852年にイギリスの獣医外科医であり、実業家でもあるウィリアム・クーパーが開発したクーパーズ・ディップである。

クーパーのディップには、ヒ素の粉末と硫黄が含まれていた。粉末は水と混合しなければならないため、農業従事者はもちろんのこと、ヒ素溶液に浸した羊も中毒になることがあった。

ヒ素中毒の症状は、黒い皮膚病変が現れるなど、「炭疽病」とよく似ています。炭疽菌と同様、ヒ素も皮膚接触、吸入、消化管を介して中毒を起こす。注射にヒ素が含まれていると、その部位に病変が発生するのだ。

今日のシープディップにはもはやヒ素が含まれていないため、炭疽菌は姿を消してしまったが、開発途上国ではまだタンニンなめしなどの工業工程で炭疽菌が使われている。

真の謎は、なぜ当時の科学者たちが炭疽菌とヒ素の関連性を明らかにしなかったのかということである。フランス人はヒ素のことをよく知っていたからだ。医者や薬剤師にはヒ素の粉末が用意されていたし、フロベールのベストセラー小説『ボバリ夫人』では、ヒロインが一握りのヒ素を飲み込んで自殺するシーンが描かれている。 フラウベルトは、美しいボヴァリー夫人が死ぬときにできる黒い病変をありありと描写している。

科学者や獣医、医師たちは、新しい細菌説に目がくらんでしまい、毒と病気を結びつけることができなかったようだ。
パスツールは1895年に死去したが、すぐに医学の第一級の聖人としての地位を確立し、新聞は古いレースの匂いのする(?)版画を掲載し、彼を称賛し、彼のフラスコとビーカーを祭壇の上に置き、感謝する崇拝者がそれらの前にひざまずいた。
科学は新しい宗教となった。 

現代の描写ではパスツールは "数十億人の命を救った男 "と呼ばれている。
しかし、パスツールには命を救ったという充足感はなかった。晩年は衰弱して悲しそうな顔をして過ごし、自分の欠点は目の周りに深いストレスと心配の線として刻まれていた。

炭疽菌は世間の意識から消え、炭疽菌ワクチンも停滞していた。
9・11の数週間後、有名なメディアのメンバーと2人の上院議員に送られた有名な炭疽菌の手紙事件まで。 少なくとも22人が病気になり、5人が死亡しました。遺伝子検査(細菌の分離ではなく)で炭疽菌の胞子が検出されたが、粉末のヒ素検査は誰も行っていない。

炭疽菌ワクチンへの関心が再燃した。 従来の情報源によると、現在使用されている炭疽菌ワクチンはすべて発疹、痛み、発熱などの反応を引き起こし、重篤な副作用が約1%の受給者に発生するという。数十年間ほとんど使用されていなかったこのワクチンは、軍人のような「リスクのある人」に使用するために廃棄された。兵士は、5回連続でワクチンを接種し、毎年ブースターを受ける。

軍人のための義務的な予防接種は、ワクチンの安全性と有効性に挑戦した法的差し止め命令によって2004年に停止された。

しかし、ワクチンが安全であった、と主張する2005年のFDAの報告書の後、国防総省は、20万人以上の軍隊と防衛請負業者のための義務的な炭疽菌の予防接種を復活させた。


終わりに:
科学者たちは、特定の細菌が土壌中のヒ素を「生物学的に修復」することができることを発見した。 これらのヒ素抵抗性および/または蓄積性のバクテリアは、「汚染された土壌に広く存在し、ヒ素で汚染された生態系の生命的浄化の貴重な候補である」という。自然は常に解決策を持っており、ヒ素の場合、その解決策はある種のありふれた土壌細菌である。ロバート・コッホによって最初に分離された「敵対的な」炭疽菌は、動物や人間がヒ素と呼ばれる毒に遭遇したときにはいつでも現場(または体内)に現れて、実際には有用な修復生物であるという可能性を考慮する必要がある。

(ここまで )

*毒薬と老嬢 Arsenic and Old Laceという映画があったようで。 Arsenic はヒ素の意

** Pouilly-le-Fort フランスの町 パスツールはヒッポリット・ロシニョールの農場で炭疽菌に対する羊の予防接種のデモンストレーションを行った。) 




8/19/2020

19. Août

 


いつ描いたのか覚えていないスケッチ。
挿絵仕事の合間に電話ボックス?
忘れ去られたかのように草むらの中だ。
屋根にも雑草が生えている。



8/18/2020

自分の時間を。



ときおり、あまりにくだらない話題が世間にもち上がるのはどうしてだろう。

例えば、アベノマスクとか、イソジンとか、芸能のニュース。そういうのである。

けっしてA首相たち政治家が愚かなのではない。

げいのーじんやメディアが愚かだからではない。

あれは、わざと些末なことで不毛な議論をさせ、わたしたち(Folks)のこころを疲弊させ、お母さんから与えられた貴重な時間…つまり人生を削っているのである。

それぞれの大切な使命から目を逸らせているのである。メディアが悪?そうとも言い切れない。わたしたちも進んでそういう議論に入りたくなるし、もっと全体的なぼんやりした悪いもの。人生を削っているのは、結局自分自身。

しかしとはいえ、やはりメディアは悪い。なんというか、そういう撒き餌のようなものとしての報道ばかりになっているこの頃。

些末で不毛な議論に熱くなった後の虚しさを纏わせ、判断力は奪われて、いつの間にか経済は麻痺してしまっていて、最後には極度の管理社会化とDNAワクチンだろう。

不毛な議論といえば、コロナ騒ぎ自体が火を見るより明らかなそれで、わたしも最初はいっぱしに怖がっていたがこの頃はすっかり醒めてしまって、もう「同じ議論のテーブル」につきたくないと思っている。

ウィルスの歴史を学ぶと…ね。




8/16/2020

16. Août

 

(描きかけの絵)

4本の糸杉はいつものように揺れている

遠くの蛇行した道を自転車がさっそうと駆け抜ける 

どこか遠くでかすかに缶詰が開く音

土に埋まったガラス瓶の冷たさ

雲は思わず近づきすぎて 手を伸ばせばすぐそこに






8/12/2020

12. Août



マスクせぬもの、人にあらず。

相変わらず素顔なので人さまの視線も怖ろしく、ねずみ忍者のようにシュッシュッと移動している。木陰から木陰へ(それは涼んでるだけ)。

この総マスク現象はなんだろうというと「そりゃ、他人にうつさないためだよ。マスクしろ!」という答えが返ってくる。

あるいは醒めたひとは「一種のお付き合いさ」というだろう。

ふと思い出したのだが第3の答えとして。

人にはミラーニューロンという神経細胞もある。

Mirror neuron 

動物の本能として、他人を真似てしまう神経細胞があるのだという。

ミラーニューロンという言葉を数年前に知ったとき、学問はここまで進んでいるのかと感心していたのだがすっかり忘れてしまっていた。

同時期に学んだアフォーダンスという言葉も思い出した。

affordance

マスクというのは顔と密着しているのでいわば大きな環境の変化である。

環境の変化はその人のアフォーダンスを無意識に大きく変化させる。





8/07/2020

7. Août



仕事場に蚊がいる。

蚊はもちろん嫌いだ。

でも、ふと思うことがある。
あんなにもたくさん発生している意味。非常によくできた蚊の身体のデザイン。
吸血するときの針が微振動しているとか、そういう特殊な仕組み。

ここまでのことをするには何かの意味があるに違いない。

わたしは、蚊はある種の天然の予防接種を打っているのではないかと思っている。
あるいは何らかの情報の伝達交換。
これらのことが10年後くらいに解明されるのではないだろうか。
他の昆虫の大量発生も怖いけれど、そういう現象にも何か知られていない深い意味があると…。

だから今試みられているような蚊の遺伝子をいじって絶滅させるとか、そういうのは何か違うような気がする。





8/05/2020

5. Août






広島市こども図書館のご依頼でレジャーシートの図案を描かせていただいた。
お外で本を読んだりとか、イベントで使われるそう。残念ながら非売品。

図案には悩んだ末に入れなかったのだけど、制作中にある言葉に巡り合った。

“Once you learn to read, you will be forever free.”
「ひとたび、読むことを学べば、永遠に自由になるだろう」
Frederick Douglass


その言葉を糧に制作した。









7/31/2020

31.Juillet





鳩の美しさには以前から着目していたのだがいつも通り過ぎてしまう。


このまえ、鳩をアップルペンシルで描いてみたら上手く描けなくて散々だった。
それでもグリグリと苦し紛れに塗っていると、詩人のアーサー・ビナードさんが自転車でやってきて、ipadの画面を覗き込んで「鳩だねえ」と言った。
わたしは「鳩ですね」と言うしかなく…。

忙しいアーサーさんだけど街で時々お見かけすることがある。おいしそうな人参を持って歩いていたり誰も見向きもしない草薮の中の石碑の説明文を読んでいたりする。

アーサーさんがお話を書き、スズキ・コージさんが絵を描いた、「そもそもオリンピック」という新しい絵本が出た。最高なので、ぜひどうぞ。

7/28/2020

28. Juillet



Ma nuit seule

7/25/2020

25. Julliet



このころ風景の中で一番変わったのは、人々がみんなマスク姿になってしまったこと。
マスクってなんなんだろう。マスクについて考えている。

マスクやソーシャルディスタンスは思いもよらなかった場に突然出現した壁で、それはヴィルスの何百倍も脅威に育っていくのではないだろうか、というのがわたしの仮説。

壁は見えなくさせる。
その向こうの情景は察せないので、恐れと敵意が大きくなる。
表情を読み取ることができなかったり、隠れているものを恐れるのはひとの本能。
でも、歴史を学ぶとわかるのだが、恐れと敵意こそは不幸が最も好むものである。

壁はまた距離でもある。
壁があると、頑張ってよじ登るか、遠回りしなければいけない。

隔たりは記憶や想像、つまり心の中のはたらきによって克服できる、とされるかもしれない。けれどもそのようなはたらきの力の源泉は何だろう。
それは実際に対象に会い、触れるということである。
つまり手触りや声の振動、そこに居る事実を感じて心を震わせることである。

ひとの体験は一生続くなどと、おめでたい考えは持っていけない。
感動は食べ物のようなもので、常に食事のように供給され続けなければいけない。
(音楽のライブに行けない、と言って泣いているあなた、それはきっと正しい)

今は危機だ。
誰も気づかないうちにみえない「泉」が枯れはじめている。



7/23/2020

「工房イサド」の「夏草」展


本日より。

京都のnowakiで「工房イサド」の「夏草」と題された展覧会。
気鋭の作家さんに混ぜていただき、わたしもイサドの額にふちどられるべく版画を制作させていただいた。
「夏草」ってイサドの本田さんらしい野山をめぐる少年的なタイトル。
ひとつひとつ絵と対峙して額を制作しておられ、どれも特別な品になっているはず。是非どうぞ。 こちら 


工房イサド+版画・板絵展ー
「夏草」7/23(木祝)-8/10(月祝)
open:11-19時
close:28・29・4・5
*23・24・25日の入場を予約制とさせていただきます。
お名前/人数/当日連絡のつく電話番号をお知らせください。

工房イサドさんの額縁は、木の種類や古材など、
それぞれの材の持つ魅力を見立てて作られています。
今回は6人の画家に版画・板絵でご参加いただき、
実際に作品が入るものとしての魅力をご紹介したいと思います。

木工:工房イサド
版画:片桐水面・さかたきよこ・正一・タダジュン・nakaban
板絵:ユカワアツコ





7/22/2020

22. Juillet



このところすっかり植物栽培に夢中になってしまっている。
ただしお庭はないので鉢植え。
 
大きな声では言えないけれど50鉢はあるだろうか。 
土を触りまくりたい。植物の樹液でかぶれたりしたい(←変態)。 
そういうのってどこかこのころの消毒社会への無意識な恐怖心があると思う。バランスをとっているんだろうと。 
この前会った友人も畑が欲しい、と言っていた。
 
土の世界はいうことをすんなり聞いてくれるわけではなくて、予想外のことがたくさん起こる。しかしその驚きがなかなかにリアルな感触である。大事に育てていた果物がカラスに突かれて腐っていたり、そういうことが悔しさもあるけどなかなか面白い。
 
さて、いろいろ育ててみる中で元気のない鉢がある。研究のつもりでひっくり返すと、そういう鉢はたいてい、土の配合のミスで粘度系の要素が密集していて息苦しそう。そういう土にはパーライトとか籾殻を混ぜてみる。
 
また、苗木を買った時に入っている鉢にはスリット鉢というのがあって、緑色のゴシック尖塔のような不思議なデザインなのだけど側面に隙間が開いていて空気が出入りするせいかとても植物がよく育つ。なので普通のプラスチック鉢にも火で炙ったカッターで穴を開けてみたりもする。根っこの気持ちのことなんてあまり考えたことはなかった。(しかし土があまりふわふわだと根っこが張っていかない、など、難しいものである。)
 
最初は肥料とか、PHにこだわることが栽培には大事だと思っていたけれど、半分以上は呼吸へのこだわりであろうと思う。答えはゆっくりと植物の育ち具合として帰ってくる。でもすんなりとはいかない。

7/19/2020

BRUTUSの表紙


発売中のBRUTUS最新号の表紙絵を描かせていただいた。

ブルータス No. 920 最高の朝食を。

食べ物の絵は時々描かせていただいているけど嫌になるほど才能あるな、と苦笑してしまう。
「味覚」「嗅覚」「触覚」は感情移入しやすいというか、心にダイレクトタッチだから悩まずに無心に描ける。
鮭の色とロゴの色を合わせてくれたのが嬉しかった。
本屋さんなどでチェックしていただけましたら。

7/16/2020

16. Juillet



"O Sol"



久しぶりのおひさま。
こんなにありがたいとは思わなかった。

この絵は一年くらい決まらなかった絵で、塗り跡もでこぼこ。
今日、手前の明るい植物を描き足して一旦の完成ということに。

最近、たくさんの植物を育て始めたので日光をとても意識している。
陽に透かして見える葉っぱは美しい。

人にもこの光は必要だ。
外に出て100000 lxの光を浴びよう。



7/07/2020

7. Juillet


Le musée (ébauche)
Le musée (ébauche)

6/28/2020

風景の絵は果てしなく続く連作かも



caloでの展覧会の絵のエピソードを少しづつ店主の石川さんに送っている。
描きながら思ったことと、自分でその絵をあとから眺めて思ったこと、などいろいろと。


風景の絵って長い長い連作なので、ひとつの絵に描かれた場所は他のすべての絵の場所に繋がっている。
それは私が生きて描いている限り拡張されていく。
建物は陽に灼けて、木は育っていく。
一枚の絵を持っている人はずっと楽しめるかも。
行ったり来たりできるのだ。



6/17/2020

アダンソニアの包装紙





photo: Adansonia

福岡の糸島にある海辺のレストラン「アダンソニアAdansonia」のための包装紙。
la notte と il giornoの2種。

ところどころに2種共通の登場人物がちょこちょこ隠れていて、探したり楽しんでいただけたら。
これは店主の前田さんのアイデアなのである。

写真はイベントに出品されたランチボックスのようだが、お菓子の包みなどに今後使用されるのだと思う。
と書いていたら追加の写真が届いた。


Wow... おいしそ。
これはお菓子セットだね。
福岡の人は美味しいものを食べ過ぎだと思う。笑


6/14/2020

online exhibition





at the website of calo bookshop.
Days until Saturday 4. July 2020.

Passion for painting.

大阪で行われているcaloでの展覧会をonlineで。
会期と同時に終了。(~7/4)



6/10/2020

10.Juin




Caloでの展覧会がスタート。http://www.calobookshop.com

このころはお客さまも少ないと思われるので静かな時間を楽しんでいただけたら。
本展示はもともと予定されていたとはいえ、パンデミック第二波の到来する前のオアシスのような貴重な時期にあたり、こうして開催できた。幸運としか言いようがない。

今は華のあるイベントはできないが、もともとわたしは展覧会ではただ絵を見て欲しいと考えている。
おいしいフードのあるイベントもいらないし、音楽のライブもいらない。
ワークショップも行わない方が良いなと思っている。
いろいろ考えてくださるギャラリーには申し訳ないとは思うがやっぱりこう思ってしまう。

静かな感じでとつい言ってしまうのは何もお高く気取っている雰囲気を要求しているわけではなく、絵を制作している現場の時間感覚を少しでも会場に持ち込もうと考えているためである。(ここは場を持っておられるギャラリーとわたしの価値観のぶつかりどころだろう。笑)

「マルメロの陽光」という映画があって、おそろしく退屈な映画なのだが、その絵画の時間とも呼べるべきものをビクトル・エリセ監督は意識的にとらえていた。この速い時代になってもわたしはやっぱりこの時間の流れ方がいい。もしかしたらコロナの件で立ち止まる時間ができて、こっちの方が好きだということに気づいた人もいらっしゃるかもしれない。

絵を描いてしまうと愉しいもので一種の孤独中毒になってしまう。
友人は画材とオブジェと光線だけ。
でも逆説的であるが、絵を通して人々とむしろありありと出会うために描いているのかもしれない。

6/06/2020

「仮額」






今度の展覧会もいつものようにぎりぎりの宅急便に間に合った。
と、いいつつ大きなの二つがまだ未完成だ。
これらは手持ちでcaloに運ぶ。

展示制作の終盤にもなると画家というより額縁屋さんになる。
写真の絵のこの額装方法のことをわたしは「仮額」と呼んでいる。
画家が自分のアトリエにかけておく、制作途中に眺めるための仮額装。
いや、「額装」とはいえないほどのシンプルさであり、要は細切れの板を側面に貼ってあるだけのものだ。

「仮額」は古今の作家のアトリエの写真集にも見られる。
なかなか素敵なので、こういうのってどこで売っているのだ?と調べたけれど、そんなの売っているはずはない。板を買えばいいだけだ。
わたしは粗末ながらも自由な感じのこの仕立て方が好きで、2月の「さかむら」での展示でも使った。

周囲の板は釘に少しの接着剤をつけて刺して留めてあるだけにしてある。
なので描き直したいなと思ってもすぐに外せる。
絵を買った人でも外して額に入れたいなと考える人もいるかもしれないし。

そういえば阿部海太さんもこの額で展示していた。やっぱりこれだよね、と盛り上がった。
そしてこの額装方法は思わぬ利点もあった。この板の出っ張りのおかげで油彩の絵具が乾いていない状態でも運びやすいのだ。なので例えば野外で絵を描くときにも良いだろう。まあ、ただし板を打ち付けてしまうと隅っこのところは塗りにくいけれど。

さて、今回のcaloの展示はすべてこの方法で。
古材のものと、新材の2種を試している。
新材の方は少し浮いているけれど年月と共に木も馴染んでゆくだろう、と希望的解釈。

明日は二枚の絵といっしょに新幹線に乗る。


6/02/2020

Invitation!



nakaban Solo exhibition 2020

大阪のcalo bookshop and cafeでの個展。6/9-7/4
550-0002大阪市西区江戸堀1-8-24 若狭ビル5階 12:00~19:00(土曜は~18:00) 毎週日・月曜休

油彩の近作をCaloのあの明るい部屋に飾らせていただく。

気軽にどうぞ。
大阪の地下鉄の肥後橋駅から徒歩数分、淀屋橋の駅からも近い。
展覧会の看板を確認し、エレベータを登り、ちょっと重たい鉄製のドアをぐぐっと開ける。
素晴らしい書店。

5/31/2020

31.Mai





L'ancienne serre est restée intacte.

町外れのこの一角の、小さな階段を降りた中庭に、旧い市の共同温室があった
苔に覆われた木々に見守られ、安心しきったかのようにその温室は眠り続けていた
(通行人は誰もその温室には興味を示さないで、チラッと見ただけでそこを通り過ぎる…)

その旧さにもかかわらず、温室の硝子はひとつも割れていなかった
つまりそこだけは雹にも降られることはなかったし そこに石を投じようとする者もいなかった

擬似的な熱帯の夜気のひそかな蓄積 それと外部の空気とのあきらかな断絶が
その温室にどこか触れ難い特別な印象を与えていた


5/29/2020

29.Mai


マスクを着けるとわたしは注意散漫になるようで、十字路で二度ほど車にはねられそうになってしまった。
それにマスクをしたまま料理や工作をしていて刃物で手を切りそうになったこともまた一度や二度ではない。

マスク着用という口鼻塞ぎが五感の他の部分に制限的な影響を与えるのは興味深い。
しかしわたしにとってはそういう微細なことであれど感覚の制限は一大事なのである。
浮かぶアイデアも捕まえられなくなるのである。

なので、マスクをつけない暮らし。
その方向で生きていく可能性という選択肢を採ることを視野に据えることもやぶさかではないのではないかと考えている。
まあシンプルに言えば、自分の吐く二酸化炭素をあまり吸いたくないだけかもしれない。だけど、それによって感覚の疎外が起こるのはやはり大いに予想できることである。社会は個人に生命にとっての呼吸という権利の重大問題をコンプライアンスとして押し付けてしまって良いのだろうか。そのような疑問が街を行き交う人びとを見ながらふつふつと浮かんでくる。
繰り返すがマスクは五感に制限を与えると思う。さらに言えばそれは直感、霊感にも影響を与える。宇宙の神秘、聖なる呼吸の流れをマスクというものが堰き止めるからだ。知らんけど。

わたしは才能の枯渇をマスクのせいにしたくない。アイデアというのは散歩したり買い物したり部屋の外を歩いているときに降りてくるものなんである。

とはいえ、このご時世でこのような態度でいるのはひとさまの視線が痛いものである。
このままでは都市で生きにくくなりそうだ。
それも時代の変化で良い機会かもしれず、仕事場を少し都市部から離れたところに引っ越してみようかしら…と夢想している。

5/27/2020

5/23/2020

5/20/2020

「そにろき」さん



昨日は呉の丘の「そにろき」に絵を届けに。
ここしばらくの霖雨もあがり眩い陽光で海も木々もきらきら。
見よ、これほどに自由が具現化されたものを私は知らない。
絵も気に入ってもらえ、ほっと一安心。
しばしお話をしながらもテントに揺れる花や木陰の織りなす影絵劇がどうにも気にかかる。笑
そして忘れられないおいしい珈琲の味。

タンジェのカフェハファ、クレのソニロキ。
檸檬がたわわに実りますように。


ココは焙煎のお店でありカフェでは無いのでどうぞご注意を。
でも優しいお二人は試飲の珈琲を出してくれることでしょう。


5/17/2020

17.Mai



Sim, sou um dos sonhadores.

5/14/2020

Salle de peinture













実作業のものばかりの作業場。
ちょっと息苦しくなって、片付けた。
そして狭い画室の真ん中に無理やりドーンとモノを飾るテーブルを置いた。
モノは毎日動かすルールだ。
ここはお店でもないのに誰も呼ばないのに「飾る」
ということは神に捧げるということだろうか。
あるいは傲慢な自己満足?
まあ、清と俗は紙一重だろうから。
いや、なんのことはない。正解を言えば制作になんらかの影響が出ることを期待しているだけだ。
しかし結局のところ眺めて好きなのは自分で使い古した道具のような気がする。

絵を飾る人がいる。
その人はきっと物事の一面を見て不要不急と切り捨てない人だ(とほめておかなければ)。
絵は一つの窓のような装置だとよく言われる。
その人の部屋に時間をかけてゆっくり馴染んでいく架空の窓。
絵はいろいろなモノや日々の音響、光線、居る人の思考と干渉をして変化していく。
そのものの経年変化もある。
「見え」は変わっていく。

5/08/2020

8.Mai




Vue panoramique sur la baie

5/04/2020

4.Mai



La Gare


5/01/2020

1.Mai


Le temps calme

4/29/2020

29.Avril


L’estuaire



4/28/2020

28.Avril



研究者たちの発見。プレボテラ属の菌のこと。 ウイルスは直接殺すわけではない。腸内細菌を通じて感染する。結果として「病原性を帯びたこの感染した細菌は、肺を崩壊させて患者を殺す免疫の過剰反応を引き起こすようです」。この長いメッセージによると、とりわけ証明するのは、ラウール教授の達見であり、それは「この大きな発見を黙らせようとさせる」メディアでの論争を巻き起こすこととなる。
(少しわかりにくいけれど、自動翻訳を修正)

語学学習的にフランスのニュースを斜め読むことがあるのだが、偶然このような記事に出会った

あの例のウィルス単体が危険なのではなく、感染した体内の菌との組み合わせで危険なものになるという話。
日本ではまだあまり報道されていないような。

その記事の題には結論を急ぐべきではない、と書かれているのだが、それでもわたしはこれにとても納得ができた。
感染とその悪化について、ばくせんとイメージするしかなかったところ、具体的な映像として人体の日和見菌が乗っ取られ、オセロゲームのように「敵」に寝返るような様を思い浮かべることができたからである。

フランスのディディエ・ラウール教授の指摘するプレボテラ属の菌はコメを食べるアジア人の腸内細菌叢に多いのだけど、コメを最も食べてきて、プレボテラ菌を多く体内に保有する東南アジアでの死者がむしろ少ないことはどう説明できるのだろうか。

これはもちろん素人考えなのであるが、菌というものがどうやらこのコロナ悲劇の主要役者であるようであるし、体内の細菌叢の健全度でこのウィルスに負けるかどうかのかなりの部分が決まって来るのではないだろうか。

ウィルスによって体内の菌(例えばそのプレボテラ菌とか)が感染し悪い振る舞いをしないように、暮らしの中でもう少しこの腸内の細菌叢のことに気を使うべきなのかもしれない。

そこで取りうることのできる対策として、やはり菌活的な暮らしがより大切になって来るのではないだろうか。
例えば発酵食品、野菜などをたくさん食べる。自分はそういう食べ物が好きなのだが今より意識してみようと思っている。

そして腸内細菌叢に悪影響の多い保存料の多く入った加工食品を買わない。
もしかしたら発酵食にこだわるよりもこちらの方が重要かもしれない。
というのも、見ていて加工食品を多く消費するいわゆる西側先進国に重症になる患者さんが多いような気がするからだ。アメリカとか。

ヨーロッパも死者が多いが保存料のとてもキツいハム類といった加工肉や出来合いの惣菜が現地でことのほか大量消費されているのを現地で見た(日本の食事もこれについてはひどいが)。
いまその関連が気になっている。そして全世界的に若い世代の感染率が高いこと…これも加工度の高い食事(ファーストフードやコンビニ食)との関連で説明できないだろうか。
自分は研究者ではないのでこれ以上は調べられないけれど。

感染者数の割に死者がゼロのマダガスカル。こんな記事が目に留まった。
マダガスカルの「抗ウイルス発酵食品」、飛ぶような売れ行き
やはりここでも発酵食品。

ラオスやヴェトナムなど東南アジアの国も感染者が出ても死者が少ないが、どこも発酵食品をよく食べる国だ。
日本人や韓国の食生活も発酵食品に囲まれているが、そのおかげで重症化しにくいのかもしれない。

また、菌といえば、自分が気を付けているのは殺菌消毒に関わることだ。
皮膚を覆う常在菌も病原菌を避ける上でとても大切なものであると本で読んだことがある。(なのでこの数年、レストランで出されるお手拭きもなるべく自分は使わないようにしている。持ち帰って掃除に使わせてもらっている)
そして今、世論は殺菌に傾いているが、わたしはアルコールで手の皮膚を消毒しなくても良いように使い捨ての手袋を持ち町を歩くようにしている。
そして密かに防護服の人たちが殺菌剤で町全体をシューッとやるような事態に進展しないようにと祈っている。

家に居ることが大切とされる時期ではあるが、やはり陽に当たったほうが良いという記事も最近のネットニュースに出ていた。
それは正しくてビタミンDは体内の細菌叢を健全化することで知られている。
また植物を育てたり土を触ることもとても大切だと思う。

…ここまで長々と読んで頂いたら伝わってしまうかもしれないけれど、わたしは自分の身体が細菌の集まりなのだという最近の微生物学の考え方がとても好きだ。

自分は日々違う組み合わせの組成を変化させながら生きている、ということが実感できるからだ。
そして個の「死」とは自分をかたち作る細菌のバンドの解散のようなものだと思っている。
細菌の集まりから集合意思のように心が生まれるのかもしれない。
その辺は永遠の謎ということで良いかと思う。

隔離、消毒。他人を恐れる、そんな風に人を萎縮させるようなルールにあっという間に世間は変わってしまった。
それは確かに科学的に優れた発想に基づく処置なのかもしれないが、その暮らし方はどこか不自然に作り物めいていて端的にいえばそこには心がない。
同じ対策をするなら、もうちょっと現象を観察した上で地に足がついた愉快な方法がないものかと自分は思っている。

食とか健康に関わる考えはなかなか政治的なことなので、他人に押し付けるべきではないし、滅多に書くべきではないと思って躊躇した。
でも誰かの新たな発想の一助になるのでは、と思っていたことを書いてみた。


4/25/2020

24.Avril





(Ébauche)

4/23/2020

23.Avril




L'ermitage

4/22/2020

22.Avril




雲を運ぶひと

石のまなざしを4つの羽の上に運ぶ「きみ」
石のため息を4つの葉へと運ぶ「あなた」
他人ぎょうぎに それとも親しげに
コーヒーカップの山の上で 
キスのうわべを冷ます
酒に浸したシンメトリーの心たちは
右頬の内側の左手へと落ちていき
鍋つかみも無しで かりかりとかじられてしまう
他人ぎょうぎに それとも親しげに
コーヒーカップの山の上で 
その1日に夜を贈る
4つのピンを引き抜いて 
豪華な耳と雪靴と いっしょに吹き飛ばす
そして ひとの声に似た星の端に座る

JEAN ARP "Jours effeuillés"(Gallimard) p125. Porte-nuage  




昨年、彫刻家のジャン・アルプの詩の本を入手した。
Jours effeuillés = 落葉の日々。
このタイトルから感じられるのは、
詩を書き記すことで心のページを増やすのでなく、失わせていく感覚。
かっこいい…。

4/21/2020

21.Avril





vue devant la gare

4/18/2020

18.Avril



Aux Voyageurs

4/17/2020

17.Avril



(Ébauche)











4/15/2020

「晴れたら空に骨まいて」


本日刊行の川内有緒さんの「晴れたら空に骨まいて」(講談社文庫版)
表紙絵を描かせていただいた。装丁は矢萩多聞さん。



カジュアルな親しみやすい文章に引き込まれ、読み進めるうちにいつの間にか圧倒的な読書体験をしてしまった。
読み終ってしばらく経った今でも目が眩み続けるような思い。

死ぬこと生きることの内外(うちそと)にある言葉で説明できないもの、それをこうして誠実に言葉で記した著者のパッションに圧倒される。この本の中に描かれた人たちの生き様の眩しさ、感情の多彩さに心が突き動かされた。

川内有緒さんはこの本に描かれなかった人すらをも描いているのではないだろうか。
なぜなら読み終わって以来、わたしは会う人、知る人、思いだす人が少し眩しい。
今まで以上に心の旅人どうしとしてそのひとに出会うようになってしまったということだ。

そうさせてしまうことがこの本のすごいところだと思う。


4/14/2020

14.Avril



La Gare

4/12/2020

12.Avril


Musée Archéologique



4/11/2020

11.Avril




Livre d’art Picasso et trois pinceaux