先日、神保町でearl cunninghamという人の画集を買って来た。
ここに画像がある。
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すごくいい。
アメリカの一番幸せだった時代の農村や港町の絵だ。
木のかたちが良い。生きている木だけでなく、死んでしまった木…折れた木や朽ちかけた木も描かれている。
そしてその一つ一つに強い思い入れを感じる。
それはゆっくり止まった感じの筆致を観ればわかる。
世間で素朴派と呼ばれている種類の絵だろう。
この、素朴派という名前は便利だ。しかしこのジャンル名だけは昔からどうも好きになれない。
要するにこうだ。これはコレクターが作品の収集時に便利に使ったレッテルなのだと想像するのだ。もちろんこの素朴派という用語をコレクターが彼らじしんのグロッサリーに加える
分には構わない。しかしそれをそのまま美術館の企画展や美術史のなかで用いているのは、どうか。
この言葉からは、正規の美術教育も受けず(そんなものはくそくらえなのだが)、純朴に生きるしかないかわいそうな人の絵なんだ、という余計なお世話な感じがする。つまり上から目線であると思うのだ。
そこにこの言葉を目にするときの居心地の悪さを感じてしまう。だれもそうは思わないかも知れないが、私はこれが画家の魂(多くはもうこの世に居ない)に対する礼儀としてどうなんだろうかとさえ思う。
見る側にも少し不幸だ。この素朴派という分類をもって絵に対峙する時、見えなくなってしまうものもあるのではないだろうか。
たとえばルソーやピロスマニ、テオフィロスの絵を素朴派というカギカッコを取り払って、観る事ができたらどんなにもっと絵の中に入り込めるだろうかと思う。
人間はそんなに純朴ではあり得ない筈であり、素直、素朴に見える風景画であってもその人の歴史や葛藤、ささやかな実験が絵に込められていると思う
。そこを観たいではないか。
それにしてもあの木はいい。
earl cunningham氏の木 ! こういう風に観て、描きたいものだと憧れてしまう。
余談
いっぽう、じゃあfolk art、という呼び名はどうかというと、そんなにイヤな感じがしない。たぶん音楽の世界で用いられる用語としての"folkie"が自分にとって好印象で、その影響もあるのだろうと思う。(いろいろ問題があるのかもしれないが)
アメリカを始め世界中のfolk artは家の壁や作物の箱を飾った絵の延長にある伝統があって、地に足がついていて、でも伝統にがんじがらめではなく個人のストーリーも描けるスペースが用意されてある感じがいい。つまり他者に押さえ込まれていなくて、自立している感じがする。