4/13/2021

Lanternamuzica カンパネーロ・鐘を打ち鳴らす人





ランテルナムジカ復活!

楽しみ楽しみ。
福岡のギャラリー望雲さんによる、萩でのイベント。
山口県萩市内にある200年前の町家、俥宿天十平での望雲・移動ギャラリー展覧会を中心にライブ、超うまいレストランMICOURIERの食事会、超かっこいいイチリヅカシューズの靴のオーダー会などのイベント盛りだくさん。
ライブ部門はランテルナムジカの他、baobabの出演の日 (5/2)も。

5/4(火) 19時開演(18時半開場) 前売¥3000/当日¥3500


詳しくはこちら







4/06/2021

NyaboSsebo & nakaban 音と幻燈の演奏会 "ponto nodal"

 


うわー。嬉しい。
Nyabo Sseboと久々にライブを行うことに!
会場は東京の hako gallery.

Sense of Quiet presents

NyaboSsebo & nakaban
音と幻燈の演奏会 "ponto nodal"
4/24(土)@hako gallery


会場での生ライブと配信があり。
チケットについては、上記のリンク先をご覧いただけたら。ぜひどうぞ!



4/04/2021

4.Avril

 

屋久島のお菓子屋さん やくしま果鈴のパッケージ。

illustration: junichi koka (!)
moji: nakaban

AD&design: terumi takaku_niid design

さて、この包装紙の中にすごく美味しいものが入っているような気がする。
家で食べようか、それとも一人で楽しむか、でもパッケージがちょっと良くて開けられない。

3/28/2021

28. Mars


"torres novas"

3/22/2021

Eテレ怖い絵本


3/26(金)午後9:30〜10:00  Eテレ怖い絵本
「悪い本」「はこ」「ことりぞ」

再放送
4/2(金)0:00〜0:30<木曜深夜> Eテレ


小野不由美さんの「はこ」が番組に取り上げられる。
「はこ」は怖い話だからなあ。

自分の身に起こることとしては、こういうのが一番怖いから、起こってほしくない、と子どもの頃からイメージしていたことがある。
(それはさいわいにしてまだ起こっていない。)

1)自分の生活圏のすぐ近くなのに、絶対に戻ってこれないエアポケットに落ちる。
2)他の人がすぐ近くにいるのが自分には見えるのに向こうからはわたしは見えない。助けを求める声も届かない。
3)その特殊な空間で死ぬこともできず、歳を取れないで、ずっと永遠に白い空間に閉じ込められている。

そういう感じ。

それとは少し違うかもしれないけれど、それと近い怖さが小野不由美さんの原作にはあって驚いたのだった。だからわたしには30年分以上の予行演習があったので、絵本の絵を描くとき、頭に浮かぶ映像をなぞるだけだった。


3/18/2021

18.Mars アサノタカオ随筆集『読むことの風』刊行記念展 @スロウな本屋




お久しぶりの更新。

明日から岡山の「スロウな本屋」でアサノタカオさんの「読むことの風」原画展。
原画は非売だけど、オリジナルの絵を3点販売。

Titleは
「greek glass in blue」
「morning light」
「english daisy」

コップの絵は写真撮るの忘れた…

佳きたたずまいの本「読むことの風」をぜひ手におとりください。

アサノタカオ随筆集『読むことの風』刊行記念 nakaban 装画・本文イラスト原画展
日 時:3月19日(金)- 4月11日(日)11:00–19:00 火曜、第2月曜定休(最終日は17時閉店)
場 所:スロウな本屋 / 岡山市北区南方2-9-7


3/06/2021

6.Mars

 


描きかけ。
光線の条件が重なり、カップの影が緑色に見えたとき、少し驚いた。
このvietri社のcucina frescaマグカップは気に入っていて、実は一箇所割れているのだけど膠で接着して使っている。
そしてうっかりそこにお湯をかけてしまうと、膠が溶けてそのパーツが取れてしまうのだ。






3/03/2021

3.Mars

パスツールの言いはじめた細菌理論は、ほんとうは根拠の弱い理論なのに、この150年栄えている。

その理屈を元手に、製薬会社の利益に誘導されるように、ずーっとずーっと、医学というものはわたしたちを騙し続けているのではないか、という疑いが拭えない。

わたしも、お母さんから、学校の先生から、手を洗いなさい、、と毎日言われ続けて育ったので、それを疑うこと自体に躊躇させられる。海外ではマスクをしていない人は警棒で殴られ、投獄される。

けれど、学校の先生も、親も、そして医者も病気になりやすくなるから、加工度の高い食品をたべないように、とは言わない。薬ののみすぎに気をつけなさいとは、言わない。そっちの方がよほど病気(状態)に近づく原因なのに。

実は、わたしはパンや菓子などの練る系の食べ物を食べる場合、作る人が調理前に石鹸で手を洗っていたらその石鹸の味がわかる。実家に行くと家中に漂う洗剤の匂いで気分が悪くなる(ランドリールームだけでなく家中の範囲で、である)。消毒のせいなのか、新幹線やブックオフも体調を崩す。こんなに敏感なのも考えものだが、要はあらゆるものが化学薬品に汚染されているということなのだ。

加工食品を作るメーカーが大事にしているのは、残念だけど、消費者の健康ではなくて、製品の品質維持で、要は出資者である株主の機嫌である。

そのような当たり前の指摘を、すぐに陰謀論だ、と貶める人が多い風潮であるが、そういう人は株式会社という仕組みのない夢の世界に生きているのかもしれない。

医者は、せっかく勉強して築き上げたキャリアが崩れてしまうので、自分で自分に暗示をかけている。この理論に間違いはない、と。

その証拠に、診察室で、医者の意見に異を唱えると、彼らはものすごく怒るらしい。バラバラの数人の実体験として聞いた話である。しかしこの細菌理論を脅かす生物学の発見というのが一方にあるのであって、それを医者はどのような気持ちで眺めているのだろうか?

繰り返すけど、医者が本当に人助けをしたいのであれば、食品添加物や農薬とか、電磁波とか、歯磨き粉のフッ素とか、さまざまな毒をもっと本気になって指摘するはずである。であるが、それをしない。業界から咎められ、学会から追放されるのが怖いからである。だから医学は本当は人助けだったはずなのに歪められている。

たまに、怪我をしたら消毒をするな、とか、常在菌を守ろう、というようなタイトルの新書が書店で売れることもあっても、文庫の野口晴哉の本が売れていても、いざ、今のような戦時下で自分が恐怖に囚われてしまうと、そういうひとたちの意見というのは結局なかったように忘れられてしまう。だからほんとうの読書というのはじつは難しく、あれは読書ではなくてただの気晴らしだったのか、ということになる。

細菌理論で現状を照らしてみるならば、私たちは「穢れて」いて、すれ違うあの人も穢れているので、敵対しあっている。レストランでは家族同士なのに透明なアクリル板で仕切られたりしている。どこかに連行される捕虜のように見えて仕方がないマスクの必須化。今、社会は何もかもが個人の生きることへの自信喪失につながる暗示に満ちている。

このようなルールにがんじがらめの、社会の末期状態を抜け出す方法のひとつは、あの細菌理論を疑うことではないだろうか?

この毒だらけの社会の中で、毒を摂取しながら生きている現実を見ないで、ただ細菌やウィルス(そもそも本当にあるのか?)だけを犯人扱いするなんて。その「治療」と称してさらなる毒を身体に入れるなんて。

当の医者が細菌理論を疑ったりすると、薬を卸してもらえなくなったり、研究資金を途絶えさせられたり、海外だと物騒にも殺されたりするようだ。

だからむしろ一般の人たちが自分なりに調べて考えることがだいじである。もちろんわたしのように細菌理論を疑うのでなく、信じる方向で検証するのでもいいだろうし。

とにかく、コロナのことでも、テレビやネット上の専門家(多くは製薬会社からの献金によってその発言にはバイアスがかけられている。参照)の言ってることを丸呑みしているだけだったら、ただ、騙され続けたままで、そのひとの人生はむなしく終わってしまう。

2/28/2021

28.Février

 



柘榴も育てている。
けれどその柘榴の苗はずっと細身のままで、全部足してもこの八百屋で買ってきた実のひとつの重みにも敵わない。
(柘榴の実って、結構角ばってるのね。そしてほんとうに重い!)
いつか自分で収穫できるようになるのだろうか?
柘榴のつぶをサラダや焼いた肉に散らした料理を写真で見たことがある。あれはかっこいいのでぜひやってみたい。

2/18/2021

17.Février

 


二月の光がひそかにグラスに落ちていた。
この水を春までとっておいて植物にあげようと思っている。

2/17/2021

17.Février

photo: blackbird books



本日から大阪・豊中のblackbird booksでアサノタカオさんの「読むことの風」原画展
2/17(wed)-3/7(sun)

良き佇まいの本にあやかってコップの絵の旅団が旅している。
一点新しい絵が増えた。

blackbird booksには新大阪から街とは反対側の北方向に御堂筋線に乗って行く。緑地公園で降りて歩いて行く。
初めてお店にお邪魔したとき、Wunderのレコードがいいとこに飾ってあって、初対面の緊張感が解けたのを思い出した。

店主の吉川さんのブログ「本とわたしを離さないで」は言葉の真摯であることや生活や出来事、会話の中で出会った不可視なるものの質量、手ざわり、そのかけがえのなさを思い出させてくれる。だからこその吉川さんの軽やかさなのか、blackbird booksではエッジの立ったポップカルチャーの紹介にも力を注いでおられ、わたしなんかもあれこれ夢中になってしまう。そうしていると、こどもたちが漫画を買いにくる、というような、近所の人が羨ましくなってしまうほどに理想的な本屋さんなのだ。



 

2/14/2021

14.Février

MONKEY Vol.23(switch publishing)
掲載小説の扉の絵を描かせていただいた。こちら

レイチェルクシュナーによる「大きな赤いスーツケースを持った女の子」というお話。

他のイラストも力作ばかりで大変刺激になるものばかり。

個人的に好きなのは古川日出男さんの連載「百の耳の都市」。
いにしえびとが憑依したような文章が面白い。

2/08/2021

2/05/2021

2/04/2021

4.Février


雑誌「ミセス」三月号(文化出版局)に一枚イラスト。
梨木香歩さんの文章ということで嬉しい仕事だった。

web上のこちらにも。
次の四月号で休刊する「ミセス」。
このような美しい雑誌がなくなってしまうのは惜しいことだ。

1/26/2021

1/25/2021

25.Janvier

 


granny smith apple


1/23/2021

1/18/2021

18.Janvier

 




描きかけの絵を仕上げた。
これは寺村摩耶子さんの本「オブジェの店」のカバーを描いた時のヴァリエーションのひとつ。

どこかの街の忘れていたはずの記憶の断片が、気持ちひとつで戻ってくる不思議さよ。
色とりどりの瓶が石像の下に並べて捨てられていたり、引っ越して行った人が捨てたのか、肖像画がひそかに立てかけてあったり。
ある時なかなか素敵な椅子が捨てられていて、ほしいなあと思った。一緒に捨てられている段ボール箱に入れて日本に送ろうかと、考えながらしばらく周辺を歩いて、帰り道にみてみると、もうなくなっていたw

夜になって頼りない明るさのランプの色合いのせいか、建物の壁が黄色くなるのとかも好きだ。無情に閉ざされた窓。光る看板。誰もいない隅っこで猫の集団が株主会議をしていたことがある。
ショーウィンドウ。お店が閉まっても昔ながらに灯がついて品物が並べてある。
ポルトガルの地方の町では閉店後、床に商品の缶詰を並べて飾っているお店があった。わたしのような人が覗き込む時のために。
閉店の儀式に床をモップして毎日缶詰を並べる人がいると思うと愉快になる。















1/16/2021

16.Janvier


なんというか、コロナ対策があまりに真面目すぎて、世の中がパニックめいて、危険なことになっている気がする。

自由がない未来を予感させる。これは感染症なんかよりずっと恐ろしいものではないだろうか。
個人的にはわたしはそんな未来を見たくない。

入院や行動歴調査を拒否すれば罰則も 自宅・宿泊療養を義務化 政府が感染症法改正を検討<新型コロナ> tokyo shinbun
旅行やイベント復帰は「ワクチン接種証明アプリ」が必須に?  CNN jp

今日も。
ドイツ、コロナ隔離違反者などを収容する刑務所開設へ  Sputnik

こういう、ちょっと前ではありえなかったニュース記事がずらずらと。

なにもわたしは、わたしたちの「健康を脅かすもの」を軽視して書いているわけではない。
ただ、毎年の風邪とさほど変わらないものに対して、対策が過剰すぎると思うのだ。
そう書くと、やっぱり怒るひとがいるだろうなあ。みんな一生懸命この現状に対策しているのだから。
どうか一冊でも本を読んでもらえたら、いいのだけど。

コロナパンデミックは、本当か?

と言ってもお読みになられないと思うので、ひとこと書くと、わたしが上に書いたことと同じようなことの根拠がひとつひとつ書いてある。
この事態は騒ぎすぎである、と。

これが個人的なノートとはいえ、こうしてわたしが、ときどき、マスク社会や、真面目に感染症と付き合うことを批判するのが、お読みになられて不快に思うひとも多いと思う。
たぶん、おまえは絵だけ描いてろ、と思われてるだろう。
でも、このように社会は自由を失う方向に進んでいく。
まるで家畜か品物のようにひとが管理されるようになる。たまったものではない。

マスコミが報道した煽り気味の情報だけで判断して、怖がれば怖がるほど、そういう個人の自由のない方向に誘導されてしまう。
この2021年1月に、これだけは書き記しておかなければ。。

仕事をするうえで、大人の事情も多いけど、わたしにとって自分に正直にあることはいちばん大切なことだ。そのばか正直でいることと絵の内容は密接に繋がっているはずだ。
それに、わたしは自由が奪われることにはとても敏感らしい。もしかして前世は鎖に繋がれた奴隷だったのだろうか。
このへんのこだわりはアートを頑張る(?)こととも深く関係があると思っている。

アートは何か?いつも考えるのだけど、シンプルに、それは「自由を指向する眼差し」という結論に行き着く。
そしてその自由は伝染していく(今は不謹慎な表現だけど)。
だからひとは音楽を聴き、絵を見て、本を読み、だれか他のひとがつくったおいしいものを食べる。いつもと違うコースで通勤しながら景色を見ることもそう。未知のミームをとりこむ。

では、いざ自由にどうぞ、と放り出されると不安が生じる。
どこにいけばよいのかわからない。誰も助けてくれない。
自分で答えを探さなければいけない。
だからとてもたいへん。そしておもしろい。
そうやってつくったものは、決して、それはただのコンテンツではない。
ある一つの「座標」なのだ。
その座標は小さなこんぺいとうのような点だから、そこに同時に他のひとは立てないんだね。
その小さな点の上で、自分は何者にも飼い慣らされないぞ、という表明をする、そういう感じ。
このディストピアで、おそらくただひとつの自由につながっていられる方法。

アートの、この単純で大切な存在意義は美術の教室でも美大でも教えてくれない。
でも、誰かが教えてくれても実感できないかも。自分で気づくことが大事なのかなあ。
それで、40歳くらいになったころにわたしはようやく気づいたけど、これを知っていたら美大になんて行かなくていい。行かなくてよかったのに。なんて思う。

ここが「ぶれて」はいけないのだ。
そして、実は次に書くこれが一番大事なのだけど、ひとのすべての活動はやっぱりアートなのだ。
だからちょっとした視点の違いで他のひとの立つ座標を否定するのはよくない。

追記:流れるままに書いたけど、要は当たり前だけど、ひとの自由というのは優先順位的にもっとも大切、ということだ。

1/15/2021

「読むことの風」原画展 @「本屋・生活綴方」





昨年saudade booksから刊行された「読むことの風」。
著者のアサノタカオさんは編集者。
アサノさんはご自分で文章を発表することにいつも謙虚なひとだ。
それがご自分の本を出されるとは、とちょっと驚いた。
絶対いい本になるんだろうなあ。ぜひ、と絵を使っていただいた。
しばらくして見本が送られてきた。この世にはたくさんの本があるけれど、saudade booksにしかない佇まいがあって、それがこの本にもある。
やっぱり読み終わるのがもったいないようないい本。
そのあと、鎌倉でお会いしたときに、いい本が出来たから原画展したいですね、と盛り上がった。

というわけで、、
その原画展が横浜・妙蓮寺の「本屋・生活綴方」で。
矢萩多聞さんに聞いた本屋さんだ。行ってみたい。

もともとはsaudade booksのwebマガジン用の絵なのだけど、表紙の絵を初め、そのうちの何点かが「読むことの風」に収められた。文章が良くてふーっと本から目をあげた時にそばに冷たい水があると嬉しいでしょ。そういう感じに使っていただいた。

たくさんのグラスの水の絵をカルトンから取り出して、こんなにいっぱいあったっけ、とびっくり。かき集めたアンティークの額に入れた。また外に出られて絵も嬉しそう。

ぜひ横浜へ「本屋・生活綴方」にどうぞ。
嬉しいことに、2月には大阪のBlackbirdbooksにも巡回する。乾杯!(←水)



1/14/2021

水彩のワインボトル





ANAの機内誌「翼の王国」の岡田カーヤさんによる、「ワイン・カルフォルニア」という連載のカット。

取材で撮影された複数の写真からイメージを膨らませて描く。
月に一度の水彩の時間。

なぜかずーっと捨てずに数年持っているスターバックスのアイスコーヒーのプラカップに水を注いで、絵具を用意する。黒い琺瑯のような絵の具箱(漆のイメージでjapanned boxという)。
その水彩絵具の箱を開けるとき、少し不思議な気持ちになるんだよね。
子どもの頃水彩をよく描いていたので、わずか一瞬記憶が遡る感じ。

1/11/2021

1/07/2021

7.Janvier



ウィルスを絵に描きなさい。

絵の教室でそう言う課題が出されるとする。すると黒いウニのようなトゲトゲに意地悪そうな顔がついたのを描くでしょう?
でも実際のウィルスにそんな意地悪そうな顔はついていない。

無表情…それどころか「ウィルスが病気を引き起こす」という今までの常識は間違えているのかも。




のかも、なんてわざとらしく書いたけど、そう、世の中のこうしたウィルスへの見解は間違えている、とわたし自身はこの先生の文章を読む前から、コロナで慌てて調べに調べた昨年の途中ころから思っている。
だから礼儀作法には悪いかも知れないけどマスクをしていない。
海馬への酸素不足で脳が損傷するのがいやだから。
これ以上わたしもボケたらこまるので…。



1/06/2021

6.Janvier

 


描きかけ 鳩とサンスベリア。

1/03/2021

3.Janvier

 



昔のステレオ写真のガラス板とそれを見る装置を入手した。
のぞいてみると、たしかに奥行きがある。舞台の書き割りのように不自然な立体感ではあるが、それでも本当にその場所にいるみたい。映画を見るより面白い気がする。これをずっと何十分も眺めているのもいい。(変人なので)
ふと我にかえって、元のガラス板を見れば、ただの古ぼけた写真が二枚並んでいるだけだ。それをレンズ越しに二つの目で組み合わせて立体を結ぶ。二つの写真と書いたが、そのどちらともわずかに違う一つの立体画が資格の中に結ばれる。つまりこの立体画は、撮影された100年前の画像ではなくて、今この瞬間にわたしの内に生まれたオリジナルの景色なのだ。
しばらく楽しんだのち、機材を傍に置いて部屋を見回すと、ふしぎな感覚に襲われた。何もこのようなステレオ写真でなくても、この現実の景色もやはりリアルタイムに結ばれた内面風景なのだ、ということを認めざるを得なくなったからだ。哲学の本には、この世界には自分の感覚以外は存在しないという唯我論という考えが出てくるが、あながち嘘とも言い切れない。
ふと、絵というものにはまた自然の法則から自由な、描くひと、見るひとそれぞれの特別な立体感があるのではないかとひらめいた。絵を描くときの、その景色への没入感を考えるときに、このステレオ写真というのは、良いヒントになったのだ。
今年はこの像を結ぶということの神秘をただ神秘と見做すだけでなく、手に掴めるようにするために考えて行きたい。(抱負風だが単なる思いつきで、特に年初の抱負はないので成り行きでw)
そういう役立たずの思考実験が、絵を描くことをますます面白くしてくれるに違いない。
さて、あの白い家まで歩くとどのくらい?