畑や鉢植えなどで植物を育てはじめた人が多い。
すごく多くいらっしゃるのだ。このことに何かあるなと思う。
土は癒される、気持ちを落ち着けてくれる。そして自分で育てた野菜はおいしい。
そういうふうに、ひとは言う。
土は混ぜたり捏ねたり、耕したりするときに、つい夢中になって、心がどこかに飛んでいくような、そういう感覚が心地よい。冷たいような暖かいようなあの手触り…。むかし、小さい頃は好きだったのに、いつの間にか汚いと思うようになっていた土と一体化するその感覚。
土って、長い時間をかけて降り積もった死骸のかたまり。
それなのにあまり怖くないのはなぜだろう。
あるいは手のひらにちょこっとの一グラムあたりに百億の微生物のいる魔境なのに、気持ち悪いと思わないのはなぜだろう。
自分もいつかは死骸や灰になって土になってしまう。今のうちから付き合ってみましょうか、というような時間旅行のような感じなのか。
そしてもちろん、日々育つ植物の見せてくれる驚き。伸びる枝。
朝起きると枝が昨日よりもぐんと伸びている。
夜の間、たくさんの枝の成長点は星の位置を指さしている。
でも星は動くから、星に憧れる植物もねじれるように成長する。実は人間の身体もそうなんだけどね。
そうやって植物を見ているけど、やっぱり土こそを見ている。概念的にも物理的にも、はるか高いところから見たらわたしたちも街もほとんど土と同一に見えるかもしれない。
気持ちわるい虫をみつけて、潰そうと思い、ふと自分がその虫であるかのような気がしてしまい、やっぱりやめておこうか、と思いとどまったり、「土目線」で遠くからやってくる少し強い風を感じたり、明日の天気を予想してみたりする。
明日のことまではわからないけど、せめて午後は晴れたらいいなと祈り、果たしてそういう祈りはまさか通じるのかしら?と密かに試すように雲の様子を眺めてみたりする。
いろいろと気にしなければいけないことが拡がって、それでも楽しい。自分の輪郭が確実に拡がっているなと感じる。
そんなふうに熱っぽく書くと、わたしは畑でも始めたのかと思われるかもしれない。わたしは果樹の鉢植えを育てている。気がついたら、あはは。100鉢くらいになってしまって。
初めはおいしいフルーツやきれいなお花を育てるという損得勘定ではじめたのに、いつのまにか、そうじゃなくなっているのだ。これは絵を描くことに似ている。つまりわたしにとってはとてつもない面白みがあるのだ。だから100鉢。あはは。
絵の具は土から出来ているし、土の親戚のようなもの。
混ぜたり捏ねたり、耕したり。どんなふうに絵が育つのかわからない。
浅薄な「意図」は自然への冒涜になるような気がして、それを慎んだ方がいいのか、それともやはりなんらかの手を講じた方がいいのか、そのさじ加減にまつわる判断も理屈ではなんとも説明できない。
それでもわたしは何か、確たる根拠があるかのように、突き動かされるように手や身体を動かしている。鉢植えで植物に触れるときも、絵を描くときも、絵のストロークのひとつでも、そうしなければどこかに進めないとでも言いたいかのように。
形而上の話である。別にどこかに行かなくてもいいはずなのに行こうとする。その原動力は「突き動かされ」。
それって何なのだろう。