10/26/2021

26.Octobre



燕が南に飛んでいくのを眺めていた。
空中に描く孤が多層の波になって、こちらにも旅立ち前の高揚感が伝わってくる。
わたしの代わりに南に飛んでいく燕(うらやましー)。
でも燕たちが去り、わたしの視野から消えてしまうと、その眺めているわたしと燕たちとの繋がりの糸は絶たれてしまう。

鳥は世界の方々に星や風のことづてを伝え、だんご虫は黙って地面を作り続けている 。
じゃあ、「ひと」である自分の担当はなにか?
浅く眠りながら考えていたが、ふと、「きちんとさせること」という言葉が思い浮かんだ。

ほう、きちんとさせる〜。
あんた暮らし系ですか?
いえいえ…

むろん、鳥やだんご虫の特性すらをひとは持っている。
自分の意識は目に映る風景にひとしいからで、だれもがなんでも出来るからだ。
あるいはこうも考えられる…いま、身動きのできないわたしの代わりに、大きな領域や小さな領域をかけ廻り、遊んでくれているのが鳥や虫たちであるのかもしれない、と。 (そう思うことによって視野を拡げようとするわたしの無駄な努力w)

しかし、きちんとさせるというのはなかなかどうして「ひと」だけにおおきく付与された特性ではないか。
(実際は猫が毛繕いに時間を割くように、他の生き物もけっこうきちんとさせている)
きちんとさせるということは深くて、それは、誰もみていないところでそれをするということに関係していて、高貴な遊びなのである。

きちんとさせるときには注意したいことがある、整えるなどと言いつつ他の存在を傷つけたり憎む気持ちを持っていてはいけない。(つまり、ゴミ掃除の時にそのゴミを憎むなど)
行為の透明度が鈍るからである。
だから高貴という言葉を使った。 

絵を描くときは一種の画面という箱庭の中でそれをしているような気がする。 
とくに油彩には失敗を更新しながら整えるという一面があるが、そのときに失敗を憎まないことが同じように大事で、失敗したときにチッと舌打ちをするような状態だったら、わたしは描くのをやめるようにしている。
その箱庭の中ですることは箱庭の外部に影響が及びそうな気がして、ひそかにこわいのである。 もしかしたら長い間飾っていただくかもしれない絵だと思うと尚更である。

描くことに何かの目的とか望みがあるとするならば、品よくありたいというものがいつも第一で、そういうことって、結局自分が気取った態度を取りたいだけなのかなあ、と考えていたが、寝ぼけながら思い浮かんだ「きちんと説」をかんがみるに、ここにはもっと深い何かがあるのではないかと思うようになった。 まあはっきりとしたことは見えないんだけど。

ある友人はガラが悪くて品がいいというのが一番良き態度であると言っている。
その友人の店で年末に展示します。

10/09/2021

9.Octobre



金沢。
本日は« Tentopathie »

10/07/2021

niti-guのRoll On

 





屋久島の宮之浦フェリー港にあるお店 niti-gu (日具)のオリジナルのRoll Onである。
である、ってえらそうに言いながら、わたしはRoll Onというモノがなんなのか最近まで知らなかったのだけど。
というか実は今も理解していない。
素肌に転がし、素敵な香気を発生させる装置のようだ(合ってる?)。

ユーカリ系の野性味と洗練味の合わさった一品。最初は柑橘系かと思ったけれど。
このラベルに使われている図版はniti-guのリニューアルの際に制作させていただいた版画「川を遡(さかのぼ)る子」が元になっており、お店の看板にも使われている。

この子が川を遡ると原始の森が生えてくる



10/05/2021

4.Octobre


ひとが会話するときの唾は2メートル飛ぶようになっているらしい。

このことから、まずマスクというものが必須になり、それから他人との距離を2メートル取りなさいとか、
飲食店の切符売り場のようなアクリル板とか、黙食?とか自宅勤務とかをやるようになった。

そもそも、自分たちの身体が唾(情報)が2メートル飛ぶデザインで設定されているのはなぜなのか?
という大きな問いからなんだか人類全体が目を逸らし続けているような気が、わたしはする。

この奇妙なルールが流行する前は、ひとは他者の唾のみならず、さまざまな季節を知らせる自然界からの粒子、
摂取しすぎたら危険な毒物の破片、などなど、つまり環境からのさまざまな情報をシャワーのように浴びながら、
瞬間ごとに自分と環境との関係をアップデートしてきたのだ。

たしかに唾が飛ぶとかいうのは不潔なイメージがあるのかもしれないが、やはりそれは生き物として必要な仕組みの一部だったのだ。
動物の、例えば猫とかは子ども猫を舐めまくっているし、ひとの赤ちゃんも色々なものを舐めて学習するではないか。

しかし今はそういうのはとにかく怖いから触れたくないと。
感染症の怖さにパニックとなり自分の周囲を何もかもを嫌っているわけである。
そのようなことをやればやるほど、アップデートが滞ることによって、遷移し続ける世界の「今」から乗り遅れることになり、
自分の生き物としての力は衰えていく一方なのではないだろうか。

ところで、自分はどこまでが自分の領域なのかと考えたことはないだろうか?
わたしはいつもそんなことばかり考えている。

「それは自分の皮膚の内側に決まっている」

まず、この答えが返ってきそうだ。

では、自分の着る服はどうか?
「もしかしたらそれも自分のうちに含めてもいいかもしれない」

では、自分の周りの大切な本や道具のある空間はどうか?
自分の作る料理や撮る写真、絵はどうだろうか。
眺める景色とは、主観的に見えるものであるが、どうだろうか。いったいどこまでが自分だろうか。

などと進めていって、なんとなく、わたし個人は何も注意を環境に向けない状態であっても、
自分の周囲2メートル、合計4メートルの球の内側は常に自分の一部である、ような気がするのだ。
(欲張り?でも本当は見える風景が全部自分だと思いたい)

だから、旅をすると自分の周囲4メートルが新しいものに触れて置き換わっていって、
旅先で色々なものに出会って出発点に戻って来たときには、自分の一部がどこか生まれ変わってしまっているというような感覚をおぼえるのではないか。

つまり、ここで何が言いたいかというと、ウィルスの件で自分の周りが全て汚れているのではないかと恐れて、「嫌う」ということは、
無意識に自分自身をも呪い続けているような、気づかないうちに自らの魂を萎縮させている状態であるのではないかと思うのだ。
意識という視点から眺めると、それは大きな危機ではないかという心配を感じてしまうのである。

この世界の現状はルール過剰となる一方で、個人はより小さな型の中に部品のように押し込められようとしているのはもはや明白で、
でもこの状況だったら仕方がない、とみんな あきらめている?

そこから抜け出すにはどうしたらいいのだろう、とそろそろ考えるときだ。
このような話はすんなりわかってもらえないと思うけど、自分的にはここはかなりこだわりたいと思っているのだ。