「どこかのさびれた駅前のイメージなんです」
オクノさんはそうおっしゃっていた。
京都の食堂「ユーゲ」の夜更けのテーブルで「ランベルマイユコーヒー店」のことをお聞きしたときのこと。
詩的な視点で世界を眺めたとき、「さびれた」はネガティブな言葉ではない。
ゆったりと風景を眺めるなら、そこには心的空間をたっぷりと含む時間がある。
たとえば、この「ランベルマイユコーヒー店」の詩によって描かれた街角の陰影とひかり。
かならずしも、ただコーヒーの香りだけを指すわけではないであろう、ひとそれぞれの「朝の香り」。
そのような朝に未だ眠たげな「夢見ていたひと」の前に差し出されるコーヒー。
やっぱりいい詩だなあと思う。
わたしは詩のよい読者とは言えないけれど、風景のよい読者でありたかった。
以前から風景の「見え」に関心があり、風景の絵ばかりを描いてきた。けれど最近このころは次第にその風景を形容する「ことば」が次第に無視できないものになってきた。ことばはとても大切だ。
ことば(特に「詩」とよばれるもの)を読むことと風景を眺めることは似ている、というどころかほぼ同じ。それがわたしの実感。
それが誰かへのかたちのない贈り物になるというのがよい。
そのように思うわたしにとって絵とことばを繋いでくれるのが「本」。
本というものがあって良かったと思う。
昨年その名も「ことばの生まれる景色」という本を作った。今もその青い本を持って全国を旅している。風景、ことば、本。そんな日々の中で、そのようなことをますます考えている。コーヒーを手にしながら。
さて、絵本のこと。朝のコーヒーの香りとともに遠くから聞こえる鉄道の音は、いつの間にかここ広島を巡る路面電車の音と馴染んでしまった。
詩の中の「深い香りのコーヒー」。飲んでみたいなあと焦がれるうちに、それはなんとなくcafeではなくkaffeとかkoffieと綴られたもののような感じがした。ベルギーのブルージュ(オランダ語圏)やドイツのリューベックのような中欧風のまちがこの絵本に描かれているのはそのためである。そしてもちろん京都のまちのことも思いながら絵を描いた。
オクノさんのランベルマイユのまちを好き好きに散歩するように描いていったのがこの絵本。
でもやっぱり「六曜社みたいだね」と言われたりするのが嬉しい。
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「ランベルマイユコーヒー店」
オクノ修:詩 nakaban:絵
装丁:横須賀拓
2019年7月20日 ミシマ社/ちいさいミシマ社 刊
B5変型判32P