12/30/2020

30.Décembre



誰も読んでないと思うけど、みなさまは今年はどうだっただろうか。
本当にアレのせいでいろいろ厄介だった。って感じではないだろうか。

個人的には、わたしは自分の体調管理、とくに食べるものに気をつかってみようかと思いたちこの一年を始めた。
世の中がこんなことになるとも知らずに。その前からだ。
単純に「制作時のひらめきは身体がきちんと整っているからこそ」という願望にも近い発想があった。

でもその方法はシンプルだ。この一年の研究をご報告する(大袈裟だ)。

なぜシンプルなのかというと、、
健康のためにあれを食べこれを食べ、というのは20代の頃から散々やっていたがもう疲れてしまって…やめた。
マッサージとか筋トレ、、そういうのは好きでなければ無理してるっていうものだから…やめた。

むしろ不自然な毒を体に入れないという方が身体のためにはよほど大切だと言うことに気づいた。
不自然なものを身体に入れない。つまり、普通。
でも、その「普通」がなんと難しいことか。
それほどに、あまりに現代の生活は不自然なものに囲まれすぎている。

あまりひとのせいにするのも良くないかもしれないが、わたしたちの不調はやっぱりこの歪んだ社会のせいなのだ。
放射性物質、電磁波、農薬、香害、恐怖を煽る報道(ストレス)。…などなど。知れば知るほど。

その中でも、特に日常生活に浸透した加工食品の添加物は恐ろしいと思った。
わたしは基本的に日中ひとりなので、食べるものを選ぶことができる。だから関心がそこに向いた。

ただし、出張とかのときは楽しんで、なんでも食べる。
頂いたものもありがたく食べる。飲み会も大好きだ。
そのうえで、では書いていく。


まずスーパーマーケットで、ネットで、購入する食品の原材料表示をチェックする習慣をつける。

×意味のわからないカタカナの添加物が書いてあるのは買わない、食べない。
残念ながらほぼ毒だと思って良い。

次に、意味が分かりそうで、なんとなく安全そうな名前の添加物も注意。

×アミノ酸 ×加水分解たんぱく ×酵母エキス ×カラメル色素 
なんだか安全そうでも調べてみるとかなりの不自然な、身体に必要ないものなのだ。(涙)

来年はさらにハードルを上げてみようかと思っている。
×コーンスターチ(遺伝子組み換えがほとんど)
×乳化剤

これでほとんどの加工食品が買えなくなる。(号泣)

もはや果物や野菜を重曹水で洗って食べるしかない、というのは嘘で、買えるものは案外ある。
東京は恵まれている。いろいろ選べる。地方はやはり畑かw

食品の添加物の話はこの程度だ。
それから食べ物そのものも見直した。

×加熱処理したハチミツを摂らない
×精製塩 精製砂糖を摂らない

健康マニアのみなさんには意外に思われそう、と思うのは以下。

×抗酸化食品を積極的に摂らない
×乳酸菌を積極的に摂らない
×大豆類を積極的に摂らない
×シードオイル(健康に良いと言われている米油やごま油や亜麻仁油も含む)を積極的に摂らない
=バターやギーを使う=外食は少なめにする

これらはどれも美味しいけど、摂りすぎると、それぞれ違う理由でバランスを崩し体に悪影響になる食べ物。
去年の今頃の自分が読んだら仰天すると思うけど。とくに乳酸菌信者だったので。
この辺の信仰はこれからも揺らぐと思うけど2020年のわたしはそうだ、ということだ。
簡単にいえば、身体にいいと言って積極的に食べないで普通にのペースで食べるということ。
意外と小麦食品も食べている。

巷で盛んに宣伝されている健康食品は疑う。
例えばオメガ3油やDHAは身体に良い、など。
砂糖、塩は健康に悪いと言われているけど、実はその逆であるかもしれない(そしてその可能性は高い)。

以前、本で読んだのだけど、サルデーニャ島の長寿のおばあさんが健康の秘訣は、他人から聞いた身体に良いという食べ物を信用しない…だそうで。今にして思えばすごく深い言葉なのかもしれない。

×虫歯の治療後の銀歯をセラミック…は高いのでせめて樹脂に変えてもらう。
理解のある歯医者さんを探すのは難しいけれどチャレンジ。
×天然重曹で歯磨きする。洗濯は重曹を洗濯機に放り込む。歯磨き粉、洗剤、石鹸、シャンプーは使い切って捨てた。

***

さて、なぜこの年の瀬にわざわざこういう食べ物ネタを書いているんだ?
というと、自分でもわからない。でも何故だか書いておこうという気持ちが強い。

たぶん、世の中の今の雰囲気の悪さ、閉塞感、異様な犯罪、その大きな一因は、現代人が変なものばかり食べさせられているからではないか?とこの頃感じているからだ。
食べ物だけではなく日用品、売られてるものを、ただ買ってくるのでなく、こうして自分でわかって選ぶことが、このひどい世の中を良くするほぼ唯一の具体的な手段だと考えるようになった。
世の中がおかしい、とデモをしたりするより具体的。政治家をえらぶことも大切だけど、票を投じても裏切られたりすることも多いし、やはり確実に自分で小さく動いていくしかない。

わたしも食べ物ではないけれど、ものをつくって売っているのだった。
言うからには、こうしてつくっているものは、果たして自分なりに「品」があってちゃんとしているだろうか、といつも考えている。
制作のフィニッシュのタイミングは?たぶん前よりマジになっている。
わたしの絵の指向は、ノスタルジックな空想のようでいて、大量消費型社会の前の「ひとの適温」な暮らしを探っているような気がする。
だからこれはただのノスタルジーではなく、感覚を取り戻したいという意味では切実だし、未来志向だ。
政治とは無縁でありたいと言いつつ、ある意味結局すごく政治的なのかも。

大量消費社会って、ほぼ個人を殺しにきている、と言いきってしまって良いと思う。
殺されなくても、ぼやぼやしていると健康を蝕まれ、お金もみぐるみ剥がされるようにできていて、病院と紐付け状態にされ、高い医療費で財産をたくさん持っていかれる。もう2020年の社会はそういう仕組みになっている。
税金や健康保険料は異常に高額で、ということは、みんな稼ぐのに忙しくて、考えたりツッコミを入れる余裕を持たないように社会がデザインされているように思えてならない。

考えすぎだろうか。でもわたしは観察すればするほどそう思ってしまう。そのままだと楽しく生きていく望みも薄く大変なばっかりだ。
だからそういう傾向のシステム化とたたかう。それが本当の意味で暮らしを考えることだと思っている。

食べ物のことを書いた。みんながすっきりとした体調とインスピレーションを取り戻して、良くないことに良くない!と気づくことが多い社会になれば良いなあ…と、お節介にも少しだけ思っている。

オーガニックや添加物の少ない食べ物はなんせ高い。手に入りにくい。
けれど、ひとが生きている一生のうちで、一番高くつく買い物が「医療費」。なんとそれは「住宅購入」ではないのだ。医療費が高いのに比べたら少しぐらい食費が高くついてもいいかなと思っている。
忙しくても安全な食べものの良いルートを確保して欲しい。それがちゃんとした食べ物を作っている人の支援になる。
自分の身体はあとまわし、仕事がだいじ、社会への奉仕が先だ、と考える人も多いはずだ。自分もそういう感じだった。けれどそうならば「ほんとうの効率」を考えて欲しい。

お読みになってわかるように、わたしはけっこうセルフィッシュで性格が疑い深い。
現代社会に対しては「殺しにきている」なんて書いてしまうように、なかなかの不信感がベースにあって、そこには意味不明な「悪意」があると前から思っている。そして今年のコロナ騒ぎでその確信はますます強まった。
でも、誰々が悪い、とか責めるつもりは実はそんなにない。
ひとりひとりは善人でも、つまり誰も悪くなくても、お金崇拝を中心にしたシステムが悪意を生み出しているということではないか、と思うのだ。
それが何か勝手に意思のようなものを持って個人を殺しにきている。
さらにその上に、ひとの習性はルールを守ることが上手で、その代わりルールを見直し、はみ出そうとするひとを厳しく裏切りもの扱いするところがある。(ルールを柔軟に変えようとしたキリストが磔にされたりした時代から今の時代のネット炎上まで何も変わっていない。部族社会の習性が刷り込まれた人間は裏切り者を糾弾する。その習性の根底には調和を破られることへの恐怖がある)
こういうことがまたこうしてシステム化に拍車をかける。まあ、そんな話をすると眉を顰める友人は多い。

あるいは歴史背景。日本の中だけだと、助け合いの性善説で成り立っていたけど、平成になって新自由主義という金融システム的な競争に放り込まれて、二つの価値観の中で引き裂かれながら生きなくてはいけなくなった。
そうして社会がこんなに歪んでいるんじゃないだろうか、とか…。

ひとのひとりひとりは善だ。それは揺るがない。
悪人となったひともシステムが狂わせたにすぎない。だからきっと良くなる…。

すごい長文になっている…今のわたしの世の中に対しての見方の落とし所はそんな感じだ。

で、コロナについて。
わたしの見方では、すべての言われていることは、報道の中だけで起こっている数字の煽りだけとしか思えない。
結局は普通の、軽ければ無症状で、ひどくなれば死ぬ毎年の風邪と同じと思っている。今年だけなんで特別あつかいなんだ?って思う。
管理社会化を指向するシステムが恐怖を煽っているだけ。
そういう架空のものと、自分は同じテーブルにつかないのだ、と年の途中からは決めて、平然と過ごしてきた。

この3年間の、1月から10月までに日本で亡くなった人で揃えた比較 (今年は10月までしか統計がないため) 
1 132 171  2018 
1 147 219  2019 
1 132 904  2020 

https://www.mhlw.go.jp/content/10700000/sanko2.pdf
海外でもドイツやアメリカの亡くなった人は今年は少なく
ただ、フランスでは若干多かった。

ウィルスというものを考えるうえで、ここでの例えとしては相応しいものではないかもしれないが、最近面白いことを知った。
大昔にヒヒのウィルスに感染した猫がいた。実は今生き残っている猫はその子孫なのだ。
そしてそのヒヒ由来のウィルスは今では猫の遺伝子の一部になっている。
「自我の起源」という真木悠介さんの本に書いてある。
読み始めはちょっとしんどいが、素晴らしい本だ。
人間にも似た話がある。、、というか、ミトコンドリアとか、、考えてみると全ての生き物がそういう成り立ちではないのか。真核生物の成り立ち自体が元祖・感染のようなものなのだから。わたしはそういうことも知らずに生きてきたので今慌てて本を読んでいる。

なんで学校でこういう物語を習わないのか。多分、暗記だけの教育で小知恵がついたわたしたち人間だけが、こうして数字に惑わされ、おろおろと戸惑っているのが今なのだ。
5Gの電波が届くようにするために樹を切ったり、街を壊してまで道路を広げたり、不健康に育てておきながら、感染が見られたと言い、家畜を皆殺しにしたりしてしまう愚かさは、暗記ばかりで物語を学ばないことの弊害のように思える。

わたしたちを遺伝子という尺度で見た場合、定住型の遺伝子がコードして作った身体がこうして「自分」になっているわけだけど、ウィルスは放浪型の遺伝子。
いわば、旅人の遺伝子。定住型と放浪型は相互に通信している。
だからどちらも必要なもの。いろいろと知ればこの世に要らないものはない。

ちなみに、外部の毒の必要か不必要かのフィルターは鼻呼吸がやってくれる。
しかしマスクを着用するとひとは口呼吸になってしまうから、フィルターは機能せず、実はかえって病気になりやすいのではないだろうかとわたしは思っている。マスクを強制した国の感染率が上がっているというデータもある。
(例えば、mask, mandate, infection, rate, graph,というワードで画像検索してみて欲しい)

さらに、口で食べる毒のフィルターは知識しかない。それで、先程の食べ物の話につながってくる。ウィルスは身体の中の毒でよくもなり、悪くもなる。ウィルスが毒をなんとかしようと努力しているとも言えるが。病気というのは身体の環境の状態なのだから、薬一つで治る訳が無い。このことは逆にいうと唾ひとつで感染しないということでもある。
食べ物や暮らし方で病気をゆっくり遠ざけることはできると思う。

ウィルスや細菌を敵視(ヘイト)して、自分はクリーン。そうして過ごすのは少し間違えた風に政治的に誘導されているとしか言いようがない。



まあ年の瀬なので誰も読んでないでしょ。
一握りの誰かに思いが伝わりますように。

わたしの考えていることなど、どうせ異端なので、だからなにもひとに押し付けるつもりはない。
でも、意見はそれぞれ違っていい。
わたしの考えだってこれからも柔軟に変えていく用意はある。
でも、マスク着用率99%のこの社会の行く末は危険すぎる。

結局、わたしもこの頃は狭い空間でひとに会う時はマスクをしたりしている。
相手にストレス(毒)を発生させない、ただそれだけのために。

さあ、書きたいことを書きまくった。
来年は少しでも心に平安が戻るよう、祈りつつ。
誰にとっても、未来はかならず良くなる、と確信しつつ。

(お仕事待たせているみなさん。今いろいろやっております。ごめんなさい!)

良い年末年始を。


12/29/2020

12/28/2020

28.Décembre

 



無花果の実って果物ではなく内側に向いて咲く花なんだよ、というと驚く人が多い。
でも、もっと不思議なのは、その増やし方は挿木であるということ。
実質全てがクローンで、枝がひとからひとへと伝わってこうして増えてきたわけだ。
イギリスの古代ローマの城壁に生えていた木の枝をアメリカ入植者が運び、その遺伝子をもった木が現代まで生き延びているというものもある(Reculver)。

新しい枝や苗が入手できたら、その品種の由来を調べたらおもしろい。ネットで調べるのであれば大抵は海外のコミュニティの掲示板にたどり着く。そこで取りざたされているのは、シノニム(別の名)があるということ。
園芸店でいくつかの品種を買ってきて、それぞれ名前が違うけど結局は同じものを育てているのか、と知らされることも多い。しかし育てて比べてみると性質が違うことも…。
名前というものがよくわからなくなる。品種名はその土地の言い伝えのものだけではなく、学者がつけることもあるし、農園の人がつけることもある、園芸業者がつけることもある。その大らかさが混乱のもとであるに違いないが、当の無花果にとってはきっとどうでも良いことなのだろう。

12/21/2020

21. Décembre

 


作業場に温室が出現。
今朝は無かったのにどうしてだろう。

12/18/2020

12/15/2020

15. Décembre



objet


その響きそのものに合理的思考からの逃走をかきたてるようなアート原点のパンク感があるようで気になって仕方がない。寺村さんの本によればsujet(主観)の反対がobjet。そして「投げる」というラテン語。

このまえ海に向かって投げた石を思い出す。

objetは解釈とは交わらない地点にあるものであって、卑近な例で言えば商業主義や馴れ合いとは無縁の凛とした部分。何者をもよせつけないのだ。 超かっこいい。

わたしもまたモノが好きで好きであれこれ集めてしまうのだが、その理由はフェティシュなことなのか将来のための資料としてなのか、もはやわからない。けれども他ならぬ自分自身のモノとの付き合い方の軽薄化に問題を感じていて(つい自分が「所有」していると思ってしまい、見る目を曇らせてしまうのだ)モノとの付き合い方を考え直したいと悩んでいる。モノに対しては本来のそれと対峙する緊張感がほしい。でもどうすればよいのか、絡まる解釈の糸は簡単に断ち切れないほどに強いもので、答えはなかなか見つからない。

今、objetとはどういうことかを考えることは、モノとの関わりの行き詰まり感の突破口になるのではないだろうか。

12/14/2020

「オブジェの店」


寺村摩耶子さんの新刊「オブジェの店」。
光栄にも表紙の絵を担当させて頂いた。
刊:青土社 装丁:中島かほる

瀧口修造が構想し、M.デュシャンが命名、看板まで書いたという幻の「オブジェの店」。
著者の寺村さんはその幻の店の存在を常に心の片隅に置いて多くの文章の仕事をなされた。それがこうして一冊の書物に。

表紙絵、みなさまのご想像の通り(?)多いに楽しんで描けた。

装丁の中島かほるさんは澁澤龍彦の本などを手掛けられた装丁家。
先日仕事場にお電話をいただいた。
「この絵は…背景の花火から推察して19世紀のウィーンのプラッツ(広場)だと思うのですが、いかがですか」と。
さて、わたしはどう答えたのだったか思い出せない。
緊張してしまい頭真っ白だったので。
でも、ウィーンの花火!という言葉は贈り物のようだった。

本書によるとオブジェの概念は物だけでなくこうした言葉にも適応されるのだという、思わず嬉しくなる指摘だ。これは世界が広がる。みなさまもぜひどうぞ。

12/13/2020

「Dean & Deluca Magazine 2nd issue」



表紙の絵を担当させて頂いた。

Dean & Delucaの前身は"The cheese store"というニューヨークのSoHoにあったチーズ店(1973)である。
一枚の写真を手元に、当時の空気を想像しながら描いた。

新聞のようなページ、写真集のようなページ、D&Dクックブックからのオリジナルレシピ。
洒落た紙面なのでパラパラめくるだけでいい気分に。
内容のさわりと取扱書店情報はこちら→

編集長はもちろん松浦弥太郎さんで、アートディレクターは米山奈津子さん。



12/11/2020

「日曜日は青い蜥蜴」


恩田陸さんの新刊エッセイ集「日曜日は青い蜥蜴」(筑摩書房)。

表紙の絵を担当させて頂いた。
夢と現実の間。真夜中の小さな地図上の一角に青いとかげ。
いろいろ歪んで「カリガリ博士(わかる?)」みたいに。自分でも気に入っている絵。

オビにも描かれているけれど、恩田陸さんの前回のエッセイ「土曜日は灰色の馬」(晶文社・文庫版はちくま文庫)から10年。
同じ様式で関わらせていただけたことが嬉しい。
デザイナーは共に柳川貴代さん。

恩田陸さんの思考(と嗜好)の一端に触れることができる一冊。
わたしは特に読書日記を読むのが好き。

12/07/2020

Lost and Found


油彩を描く過程で避けては通れないのが「塗りつぶし」。

せっかく描いた建物やお花を塗りつぶす。ひとの顔を塗りつぶす。心の中で始めの動機を強く保とうと思っていても、それも次々と塗りつぶされていく。手が勝手に動くから。

そのうえに現れているのは不在性だ。当たり前だけど、塗りつぶしとは、不要では、なんか好きくない、と感じたものを次々と埋めて葬り去る行為なのだから。

ローマの遺跡のように埋もれ、失われた時間の層は消えてしまうのだろうか。

もちろんそれは見えなくなるけれど、消えてしまうわけでは無い。あるいは埋もれきれずに客土とわずかに混じり合う。間違いなく過去は地中から情報を発している。

絵を見る人は、それを無意識に感じとる。眠っていたダウジングロッドのような感覚を呼び覚まして。だから自分を含めて、見る人をなめてかかるのはよくないと言い聞かせる。というか見るひとの方が遥かに創造的で、すごいのだ。

描いていたものがそうして次々と埋もれていき、新しい印象が現れてくる。そこに不思議な移動感覚があり、これは、なんなのだろうという気持ちになる。失われた層の上に枯れ葉が降り積もる。古層は少しづつ遠ざかりながら、まさに「遠ざかり」の情報を伝えてくる。その遠ざかり感を受信し、変わらぬものなんて無いんだなあ、と思うときにポエジーと呼ばれるものがいつの間にかそこにあるのではないだろうか。

そのようなことを思って、Lost and Foundという題をつけた。

でも表向きは「遺失物管理所」という意味のようでw 

その「真面目か!」を茶化してくれるところも気に入ったのだ。


展覧会は終わった。

URESICAの展示に来て絵に出会ってくださったみなさま、ありがとうございました。

12/06/2020

6. Décembre



もうすぐ5周年なのだとか。
えー。
時間が経つのって早い。

というわけで、すっかり界隈に馴染んでいる“Title”。


 

12/01/2020

「だまされ屋さん」再び!(原画展のお知らせ)





いま、星野智幸さんの「だまされ屋さん」が檸檬色の単行本になって本屋さんに並んでいる。
読売新聞の連載だった作品で、感動の最終回から半年を経て、このたび単行本版でも光栄なことに絵を描かせていただいたのだ。中央公論新社刊。

本書の原画展がもうすぐ、東京の荻窪のTitleで。 (12月4日から - 12月24日まで)

原画はたったの1枚。
その代わり、新聞に掲載された絵を100枚くらい。

100が1になったことを感じて欲しい…

…とおかしな決め台詞でお知らせを終えよう、と思ったけど、実は版画を展示するということになって、新作を急遽いくつか作ったのだった。
折角なので、「だまされ屋さん」に出てくる団地のあるような郊外を意識して制作した。
郊外といえば、以前制作した小さな本、suburban portraits という本を思い出したし、フェデリコ・モンポウの郊外を主題にした静かなピアノ曲なども…(あるよなあと言いながらCDが無くなってしまい聴けていない)そしてわたしが住んでいる自宅も郊外。旅をしていて、ついバスを終点まで乗ってしまい困ってしまうのも郊外。
郊外のアンビエンスと版画はとても合う。

本屋Titleは今、油彩を展示していただいている西荻窪のURESICAとも近いので、もしかしたら両方を見ていただけるかも。

さて、ブログをアップしたら版画を額に入れたので今から東京に送ろう。
まだインクの香りがそこらに漂っている。