1/18/2021

18.Janvier

 




描きかけの絵を仕上げた。
これは寺村摩耶子さんの本「オブジェの店」のカバーを描いた時のヴァリエーションのひとつ。

どこかの街の忘れていたはずの記憶の断片が、気持ちひとつで戻ってくる不思議さよ。
色とりどりの瓶が石像の下に並べて捨てられていたり、引っ越して行った人が捨てたのか、肖像画がひそかに立てかけてあったり。
ある時なかなか素敵な椅子が捨てられていて、ほしいなあと思った。一緒に捨てられている段ボール箱に入れて日本に送ろうかと、考えながらしばらく周辺を歩いて、帰り道にみてみると、もうなくなっていたw

夜になって頼りない明るさのランプの色合いのせいか、建物の壁が黄色くなるのとかも好きだ。無情に閉ざされた窓。光る看板。誰もいない隅っこで猫の集団が株主会議をしていたことがある。
ショーウィンドウ。お店が閉まっても昔ながらに灯がついて品物が並べてある。
ポルトガルの地方の町では閉店後、床に商品の缶詰を並べて飾っているお店があった。わたしのような人が覗き込む時のために。
閉店の儀式に床をモップして毎日缶詰を並べる人がいると思うと愉快になる。















1/16/2021

16.Janvier


なんというか、コロナ対策があまりに真面目すぎて、世の中がパニックめいて、危険なことになっている気がする。

自由がない未来を予感させる。これは感染症なんかよりずっと恐ろしいものではないだろうか。
個人的にはわたしはそんな未来を見たくない。

入院や行動歴調査を拒否すれば罰則も 自宅・宿泊療養を義務化 政府が感染症法改正を検討<新型コロナ> tokyo shinbun
旅行やイベント復帰は「ワクチン接種証明アプリ」が必須に?  CNN jp

今日も。
ドイツ、コロナ隔離違反者などを収容する刑務所開設へ  Sputnik

こういう、ちょっと前ではありえなかったニュース記事がずらずらと。

なにもわたしは、わたしたちの「健康を脅かすもの」を軽視して書いているわけではない。
ただ、毎年の風邪とさほど変わらないものに対して、対策が過剰すぎると思うのだ。
そう書くと、やっぱり怒るひとがいるだろうなあ。みんな一生懸命この現状に対策しているのだから。
どうか一冊でも本を読んでもらえたら、いいのだけど。

コロナパンデミックは、本当か?

と言ってもお読みになられないと思うので、ひとこと書くと、わたしが上に書いたことと同じようなことの根拠がひとつひとつ書いてある。
この事態は騒ぎすぎである、と。

これが個人的なノートとはいえ、こうしてわたしが、ときどき、マスク社会や、真面目に感染症と付き合うことを批判するのが、お読みになられて不快に思うひとも多いと思う。
たぶん、おまえは絵だけ描いてろ、と思われてるだろう。
でも、このように社会は自由を失う方向に進んでいく。
まるで家畜か品物のようにひとが管理されるようになる。たまったものではない。

マスコミが報道した煽り気味の情報だけで判断して、怖がれば怖がるほど、そういう個人の自由のない方向に誘導されてしまう。
この2021年1月に、これだけは書き記しておかなければ。。

仕事をするうえで、大人の事情も多いけど、わたしにとって自分に正直にあることはいちばん大切なことだ。そのばか正直でいることと絵の内容は密接に繋がっているはずだ。
それに、わたしは自由が奪われることにはとても敏感らしい。もしかして前世は鎖に繋がれた奴隷だったのだろうか。
このへんのこだわりはアートを頑張る(?)こととも深く関係があると思っている。

アートは何か?いつも考えるのだけど、シンプルに、それは「自由を指向する眼差し」という結論に行き着く。
そしてその自由は伝染していく(今は不謹慎な表現だけど)。
だからひとは音楽を聴き、絵を見て、本を読み、だれか他のひとがつくったおいしいものを食べる。いつもと違うコースで通勤しながら景色を見ることもそう。未知のミームをとりこむ。

では、いざ自由にどうぞ、と放り出されると不安が生じる。
どこにいけばよいのかわからない。誰も助けてくれない。
自分で答えを探さなければいけない。
だからとてもたいへん。そしておもしろい。
そうやってつくったものは、決して、それはただのコンテンツではない。
ある一つの「座標」なのだ。
その座標は小さなこんぺいとうのような点だから、そこに同時に他のひとは立てないんだね。
その小さな点の上で、自分は何者にも飼い慣らされないぞ、という表明をする、そういう感じ。
このディストピアで、おそらくただひとつの自由につながっていられる方法。

アートの、この単純で大切な存在意義は美術の教室でも美大でも教えてくれない。
でも、誰かが教えてくれても実感できないかも。自分で気づくことが大事なのかなあ。
それで、40歳くらいになったころにわたしはようやく気づいたけど、これを知っていたら美大になんて行かなくていい。行かなくてよかったのに。なんて思う。

ここが「ぶれて」はいけないのだ。
そして、実は次に書くこれが一番大事なのだけど、ひとのすべての活動はやっぱりアートなのだ。
だからちょっとした視点の違いで他のひとの立つ座標を否定するのはよくない。

追記:流れるままに書いたけど、要は当たり前だけど、ひとの自由というのは優先順位的にもっとも大切、ということだ。

1/15/2021

「読むことの風」原画展 @「本屋・生活綴方」





昨年saudade booksから刊行された「読むことの風」。
著者のアサノタカオさんは編集者。
アサノさんはご自分で文章を発表することにいつも謙虚なひとだ。
それがご自分の本を出されるとは、とちょっと驚いた。
絶対いい本になるんだろうなあ。ぜひ、と絵を使っていただいた。
しばらくして見本が送られてきた。この世にはたくさんの本があるけれど、saudade booksにしかない佇まいがあって、それがこの本にもある。
やっぱり読み終わるのがもったいないようないい本。
そのあと、鎌倉でお会いしたときに、いい本が出来たから原画展したいですね、と盛り上がった。

というわけで、、
その原画展が横浜・妙蓮寺の「本屋・生活綴方」で。
矢萩多聞さんに聞いた本屋さんだ。行ってみたい。

もともとはsaudade booksのwebマガジン用の絵なのだけど、表紙の絵を初め、そのうちの何点かが「読むことの風」に収められた。文章が良くてふーっと本から目をあげた時にそばに冷たい水があると嬉しいでしょ。そういう感じに使っていただいた。

たくさんのグラスの水の絵をカルトンから取り出して、こんなにいっぱいあったっけ、とびっくり。かき集めたアンティークの額に入れた。また外に出られて絵も嬉しそう。

ぜひ横浜へ「本屋・生活綴方」にどうぞ。
嬉しいことに、2月には大阪のBlackbirdbooksにも巡回する。乾杯!(←水)



1/14/2021

水彩のワインボトル





ANAの機内誌「翼の王国」の岡田カーヤさんによる、「ワイン・カルフォルニア」という連載のカット。

取材で撮影された複数の写真からイメージを膨らませて描く。
月に一度の水彩の時間。

なぜかずーっと捨てずに数年持っているスターバックスのアイスコーヒーのプラカップに水を注いで、絵具を用意する。黒い琺瑯のような絵の具箱(漆のイメージでjapanned boxという)。
その水彩絵具の箱を開けるとき、少し不思議な気持ちになるんだよね。
子どもの頃水彩をよく描いていたので、わずか一瞬記憶が遡る感じ。

1/11/2021

1/07/2021

7.Janvier



ウィルスを絵に描きなさい。

絵の教室でそう言う課題が出されるとする。すると黒いウニのようなトゲトゲに意地悪そうな顔がついたのを描くでしょう?
でも実際のウィルスにそんな意地悪そうな顔はついていない。

無表情…それどころか「ウィルスが病気を引き起こす」という今までの常識は間違えているのかも。




のかも、なんてわざとらしく書いたけど、そう、世の中のこうしたウィルスへの見解は間違えている、とわたし自身はこの先生の文章を読む前から、コロナで慌てて調べに調べた昨年の途中ころから思っている。
だから礼儀作法には悪いかも知れないけどマスクをしていない。
海馬への酸素不足で脳が損傷するのがいやだから。
これ以上わたしもボケたらこまるので…。



1/06/2021

6.Janvier

 


描きかけ 鳩とサンスベリア。

1/03/2021

3.Janvier

 



昔のステレオ写真のガラス板とそれを見る装置を入手した。
のぞいてみると、たしかに奥行きがある。舞台の書き割りのように不自然な立体感ではあるが、それでも本当にその場所にいるみたい。映画を見るより面白い気がする。これをずっと何十分も眺めているのもいい。(変人なので)
ふと我にかえって、元のガラス板を見れば、ただの古ぼけた写真が二枚並んでいるだけだ。それをレンズ越しに二つの目で組み合わせて立体を結ぶ。二つの写真と書いたが、そのどちらともわずかに違う一つの立体画が資格の中に結ばれる。つまりこの立体画は、撮影された100年前の画像ではなくて、今この瞬間にわたしの内に生まれたオリジナルの景色なのだ。
しばらく楽しんだのち、機材を傍に置いて部屋を見回すと、ふしぎな感覚に襲われた。何もこのようなステレオ写真でなくても、この現実の景色もやはりリアルタイムに結ばれた内面風景なのだ、ということを認めざるを得なくなったからだ。哲学の本には、この世界には自分の感覚以外は存在しないという唯我論という考えが出てくるが、あながち嘘とも言い切れない。
ふと、絵というものにはまた自然の法則から自由な、描くひと、見るひとそれぞれの特別な立体感があるのではないかとひらめいた。絵を描くときの、その景色への没入感を考えるときに、このステレオ写真というのは、良いヒントになったのだ。
今年はこの像を結ぶということの神秘をただ神秘と見做すだけでなく、手に掴めるようにするために考えて行きたい。(抱負風だが単なる思いつきで、特に年初の抱負はないので成り行きでw)
そういう役立たずの思考実験が、絵を描くことをますます面白くしてくれるに違いない。
さて、あの白い家まで歩くとどのくらい?

12/30/2020

30.Décembre



誰も読んでないと思うけど、みなさまは今年はどうだっただろうか。
本当にアレのせいでいろいろ厄介だった。って感じではないだろうか。

個人的には、わたしは自分の体調管理、とくに食べるものに気をつかってみようかと思いたちこの一年を始めた。
世の中がこんなことになるとも知らずに。その前からだ。
単純に「制作時のひらめきは身体がきちんと整っているからこそ」という願望にも近い発想があった。

でもその方法はシンプルだ。この一年の研究をご報告する(大袈裟だ)。

なぜシンプルなのかというと、、
健康のためにあれを食べこれを食べ、というのは20代の頃から散々やっていたがもう疲れてしまって…やめた。
マッサージとか筋トレ、、そういうのは好きでなければ無理してるっていうものだから…やめた。

むしろ不自然な毒を体に入れないという方が身体のためにはよほど大切だと言うことに気づいた。
不自然なものを身体に入れない。つまり、普通。
でも、その「普通」がなんと難しいことか。
それほどに、あまりに現代の生活は不自然なものに囲まれすぎている。

あまりひとのせいにするのも良くないかもしれないが、わたしたちの不調はやっぱりこの歪んだ社会のせいなのだ。
放射性物質、電磁波、農薬、香害、恐怖を煽る報道(ストレス)。…などなど。知れば知るほど。

その中でも、特に日常生活に浸透した加工食品の添加物は恐ろしいと思った。
わたしは基本的に日中ひとりなので、食べるものを選ぶことができる。だから関心がそこに向いた。

ただし、出張とかのときは楽しんで、なんでも食べる。
頂いたものもありがたく食べる。飲み会も大好きだ。
そのうえで、では書いていく。


まずスーパーマーケットで、ネットで、購入する食品の原材料表示をチェックする習慣をつける。

×意味のわからないカタカナの添加物が書いてあるのは買わない、食べない。
残念ながらほぼ毒だと思って良い。

次に、意味が分かりそうで、なんとなく安全そうな名前の添加物も注意。

×アミノ酸 ×加水分解たんぱく ×酵母エキス ×カラメル色素 
なんだか安全そうでも調べてみるとかなりの不自然な、身体に必要ないものなのだ。(涙)

来年はさらにハードルを上げてみようかと思っている。
×コーンスターチ(遺伝子組み換えがほとんど)
×乳化剤

これでほとんどの加工食品が買えなくなる。(号泣)

もはや果物や野菜を重曹水で洗って食べるしかない、というのは嘘で、買えるものは案外ある。
東京は恵まれている。いろいろ選べる。地方はやはり畑かw

食品の添加物の話はこの程度だ。
それから食べ物そのものも見直した。

×加熱処理したハチミツを摂らない
×精製塩 精製砂糖を摂らない

健康マニアのみなさんには意外に思われそう、と思うのは以下。

×抗酸化食品を積極的に摂らない
×乳酸菌を積極的に摂らない
×大豆類を積極的に摂らない
×シードオイル(健康に良いと言われている米油やごま油や亜麻仁油も含む)を積極的に摂らない
=バターやギーを使う=外食は少なめにする

これらはどれも美味しいけど、摂りすぎると、それぞれ違う理由でバランスを崩し体に悪影響になる食べ物。
去年の今頃の自分が読んだら仰天すると思うけど。とくに乳酸菌信者だったので。
この辺の信仰はこれからも揺らぐと思うけど2020年のわたしはそうだ、ということだ。
簡単にいえば、身体にいいと言って積極的に食べないで普通にのペースで食べるということ。
意外と小麦食品も食べている。

巷で盛んに宣伝されている健康食品は疑う。
例えばオメガ3油やDHAは身体に良い、など。
砂糖、塩は健康に悪いと言われているけど、実はその逆であるかもしれない(そしてその可能性は高い)。

以前、本で読んだのだけど、サルデーニャ島の長寿のおばあさんが健康の秘訣は、他人から聞いた身体に良いという食べ物を信用しない…だそうで。今にして思えばすごく深い言葉なのかもしれない。

×虫歯の治療後の銀歯をセラミック…は高いのでせめて樹脂に変えてもらう。
理解のある歯医者さんを探すのは難しいけれどチャレンジ。
×天然重曹で歯磨きする。洗濯は重曹を洗濯機に放り込む。歯磨き粉、洗剤、石鹸、シャンプーは使い切って捨てた。

***

さて、なぜこの年の瀬にわざわざこういう食べ物ネタを書いているんだ?
というと、自分でもわからない。でも何故だか書いておこうという気持ちが強い。

たぶん、世の中の今の雰囲気の悪さ、閉塞感、異様な犯罪、その大きな一因は、現代人が変なものばかり食べさせられているからではないか?とこの頃感じているからだ。
食べ物だけではなく日用品、売られてるものを、ただ買ってくるのでなく、こうして自分でわかって選ぶことが、このひどい世の中を良くするほぼ唯一の具体的な手段だと考えるようになった。
世の中がおかしい、とデモをしたりするより具体的。政治家をえらぶことも大切だけど、票を投じても裏切られたりすることも多いし、やはり確実に自分で小さく動いていくしかない。

わたしも食べ物ではないけれど、ものをつくって売っているのだった。
言うからには、こうしてつくっているものは、果たして自分なりに「品」があってちゃんとしているだろうか、といつも考えている。
制作のフィニッシュのタイミングは?たぶん前よりマジになっている。
わたしの絵の指向は、ノスタルジックな空想のようでいて、大量消費型社会の前の「ひとの適温」な暮らしを探っているような気がする。
だからこれはただのノスタルジーではなく、感覚を取り戻したいという意味では切実だし、未来志向だ。
政治とは無縁でありたいと言いつつ、ある意味結局すごく政治的なのかも。

大量消費社会って、ほぼ個人を殺しにきている、と言いきってしまって良いと思う。
殺されなくても、ぼやぼやしていると健康を蝕まれ、お金もみぐるみ剥がされるようにできていて、病院と紐付け状態にされ、高い医療費で財産をたくさん持っていかれる。もう2020年の社会はそういう仕組みになっている。
税金や健康保険料は異常に高額で、ということは、みんな稼ぐのに忙しくて、考えたりツッコミを入れる余裕を持たないように社会がデザインされているように思えてならない。

考えすぎだろうか。でもわたしは観察すればするほどそう思ってしまう。そのままだと楽しく生きていく望みも薄く大変なばっかりだ。
だからそういう傾向のシステム化とたたかう。それが本当の意味で暮らしを考えることだと思っている。

食べ物のことを書いた。みんながすっきりとした体調とインスピレーションを取り戻して、良くないことに良くない!と気づくことが多い社会になれば良いなあ…と、お節介にも少しだけ思っている。

オーガニックや添加物の少ない食べ物はなんせ高い。手に入りにくい。
けれど、ひとが生きている一生のうちで、一番高くつく買い物が「医療費」。なんとそれは「住宅購入」ではないのだ。医療費が高いのに比べたら少しぐらい食費が高くついてもいいかなと思っている。
忙しくても安全な食べものの良いルートを確保して欲しい。それがちゃんとした食べ物を作っている人の支援になる。
自分の身体はあとまわし、仕事がだいじ、社会への奉仕が先だ、と考える人も多いはずだ。自分もそういう感じだった。けれどそうならば「ほんとうの効率」を考えて欲しい。

お読みになってわかるように、わたしはけっこうセルフィッシュで性格が疑い深い。
現代社会に対しては「殺しにきている」なんて書いてしまうように、なかなかの不信感がベースにあって、そこには意味不明な「悪意」があると前から思っている。そして今年のコロナ騒ぎでその確信はますます強まった。
でも、誰々が悪い、とか責めるつもりは実はそんなにない。
ひとりひとりは善人でも、つまり誰も悪くなくても、お金崇拝を中心にしたシステムが悪意を生み出しているということではないか、と思うのだ。
それが何か勝手に意思のようなものを持って個人を殺しにきている。
さらにその上に、ひとの習性はルールを守ることが上手で、その代わりルールを見直し、はみ出そうとするひとを厳しく裏切りもの扱いするところがある。(ルールを柔軟に変えようとしたキリストが磔にされたりした時代から今の時代のネット炎上まで何も変わっていない。部族社会の習性が刷り込まれた人間は裏切り者を糾弾する。その習性の根底には調和を破られることへの恐怖がある)
こういうことがまたこうしてシステム化に拍車をかける。まあ、そんな話をすると眉を顰める友人は多い。

あるいは歴史背景。日本の中だけだと、助け合いの性善説で成り立っていたけど、平成になって新自由主義という金融システム的な競争に放り込まれて、二つの価値観の中で引き裂かれながら生きなくてはいけなくなった。
そうして社会がこんなに歪んでいるんじゃないだろうか、とか…。

ひとのひとりひとりは善だ。それは揺るがない。
悪人となったひともシステムが狂わせたにすぎない。だからきっと良くなる…。

すごい長文になっている…今のわたしの世の中に対しての見方の落とし所はそんな感じだ。

で、コロナについて。
わたしの見方では、すべての言われていることは、報道の中だけで起こっている数字の煽りだけとしか思えない。
結局は普通の、軽ければ無症状で、ひどくなれば死ぬ毎年の風邪と同じと思っている。今年だけなんで特別あつかいなんだ?って思う。
管理社会化を指向するシステムが恐怖を煽っているだけ。
そういう架空のものと、自分は同じテーブルにつかないのだ、と年の途中からは決めて、平然と過ごしてきた。

この3年間の、1月から10月までに日本で亡くなった人で揃えた比較 (今年は10月までしか統計がないため) 
1 132 171  2018 
1 147 219  2019 
1 132 904  2020 

https://www.mhlw.go.jp/content/10700000/sanko2.pdf
海外でもドイツやアメリカの亡くなった人は今年は少なく
ただ、フランスでは若干多かった。

ウィルスというものを考えるうえで、ここでの例えとしては相応しいものではないかもしれないが、最近面白いことを知った。
大昔にヒヒのウィルスに感染した猫がいた。実は今生き残っている猫はその子孫なのだ。
そしてそのヒヒ由来のウィルスは今では猫の遺伝子の一部になっている。
「自我の起源」という真木悠介さんの本に書いてある。
読み始めはちょっとしんどいが、素晴らしい本だ。
人間にも似た話がある。、、というか、ミトコンドリアとか、、考えてみると全ての生き物がそういう成り立ちではないのか。真核生物の成り立ち自体が元祖・感染のようなものなのだから。わたしはそういうことも知らずに生きてきたので今慌てて本を読んでいる。

なんで学校でこういう物語を習わないのか。多分、暗記だけの教育で小知恵がついたわたしたち人間だけが、こうして数字に惑わされ、おろおろと戸惑っているのが今なのだ。
5Gの電波が届くようにするために樹を切ったり、街を壊してまで道路を広げたり、不健康に育てておきながら、感染が見られたと言い、家畜を皆殺しにしたりしてしまう愚かさは、暗記ばかりで物語を学ばないことの弊害のように思える。

わたしたちを遺伝子という尺度で見た場合、定住型の遺伝子がコードして作った身体がこうして「自分」になっているわけだけど、ウィルスは放浪型の遺伝子。
いわば、旅人の遺伝子。定住型と放浪型は相互に通信している。
だからどちらも必要なもの。いろいろと知ればこの世に要らないものはない。

ちなみに、外部の毒の必要か不必要かのフィルターは鼻呼吸がやってくれる。
しかしマスクを着用するとひとは口呼吸になってしまうから、フィルターは機能せず、実はかえって病気になりやすいのではないだろうかとわたしは思っている。マスクを強制した国の感染率が上がっているというデータもある。
(例えば、mask, mandate, infection, rate, graph,というワードで画像検索してみて欲しい)

さらに、口で食べる毒のフィルターは知識しかない。それで、先程の食べ物の話につながってくる。ウィルスは身体の中の毒でよくもなり、悪くもなる。ウィルスが毒をなんとかしようと努力しているとも言えるが。病気というのは身体の環境の状態なのだから、薬一つで治る訳が無い。このことは逆にいうと唾ひとつで感染しないということでもある。
食べ物や暮らし方で病気をゆっくり遠ざけることはできると思う。

ウィルスや細菌を敵視(ヘイト)して、自分はクリーン。そうして過ごすのは少し間違えた風に政治的に誘導されているとしか言いようがない。



まあ年の瀬なので誰も読んでないでしょ。
一握りの誰かに思いが伝わりますように。

わたしの考えていることなど、どうせ異端なので、だからなにもひとに押し付けるつもりはない。
でも、意見はそれぞれ違っていい。
わたしの考えだってこれからも柔軟に変えていく用意はある。
でも、マスク着用率99%のこの社会の行く末は危険すぎる。

結局、わたしもこの頃は狭い空間でひとに会う時はマスクをしたりしている。
相手にストレス(毒)を発生させない、ただそれだけのために。

さあ、書きたいことを書きまくった。
来年は少しでも心に平安が戻るよう、祈りつつ。
誰にとっても、未来はかならず良くなる、と確信しつつ。

(お仕事待たせているみなさん。今いろいろやっております。ごめんなさい!)

良い年末年始を。


12/29/2020