11/21/2020

21. Novembre (Les dernières figues de cette année)

 

無花果を八百屋さんで買って来た。
ちょっと高いけどモチーフにすると言うことで。
この品種は蓬萊柿(ほーらいし)ともいう。
うつわは松の木を削りまくった自作なのだ。

11/14/2020

expo "Lost and Found"

 





Lost and Found

西荻窪のURESICAにて11月26日(木)から12月7日(月)まで。
火曜水曜は休廊。

お気軽にどうぞ。




11/13/2020

檸檬

 

そにろきさん(呉の山の上のコーヒー焙煎屋さん)のお庭の檸檬。

初めて実った檸檬だそうで、収穫の嬉しさをわけていただいた。
鮮やかなものに目を奪われる、ヒトの色覚は遠くから果物を見つけ出すために発達したって聞いたことがある。本当かな。



11/12/2020

12.Novembre


先日、観覧車に乗った。
いつぶりだろう?

大輪とは言えない程々の大きさの観覧車で、
猫のエサの缶を立てたような黄色いゴンドラだった。
一周する間、ずっと金属部品がきしきし、と鳴っていた。
客は娘とわたししかいなかった。
安全な地上に戻るまで、景色を見ることと引き換えに命を数分だけ預ける感覚。
地上の時間の流れと違う手触り。

自宅からはちょっと遠いけれど海を挟んで見える観覧車なので(夜は電飾が輝く)
これに乗っておくことはポイントが高い。

毎日、夜風に吹かれながらのベランダで、
「そう、わたしはあの観覧車に乗った」
、と悦に入ることができる。

11/08/2020

11/04/2020

4. Novembre

 

2010


2020


同じ主題を再び。
水辺、夕暮れ、冬、漂着、南の果て、忘却。
もう少し描き加えるかも。
(描いたときはよし!と思ったのに)




10/31/2020

31.Octobre






描きかけの絵。
冬に気持ちが引かれている。
描きたいのは冷たい寂光の中のかすかな暖かさ。

10/30/2020

30.Octobre


作業場には電車で通っている。
秋枯れの無花果畑をみたくて、まわり道を歩き、いつもと違う電停に着いた。
電車を待ちながら本を読んでいると、知らないおじいさんがわたしの前に立ち止まり、すっと古びた紙を差し出した。
「言葉も喋れないし、生活保護を受けて暮らしているのでお金を貸してください」と書いてある。
価格設定がちょっと高くて2000円から3000円。
気まずい空気が漂う。あいにくか幸運か、手持ちのお札はない。
昨日スーパーマーケットで買い物をしたときにお札をカードに課金してしまったからである。小銭いれに500円硬貨があったので差し出した。
手にとってなにも言わず立ち去るおじいさん。

見知らぬ人にお金を渡すのはパリの路上で以来。
利害関係がないのにお金を渡したりすると(災害の支援金とも違う)どうしても普段考えないひとでも社会の仕組みを考えてしまう。政治がよくない、とか批判的な意味ではなくて、なぜ貨幣という頼りない紙や金属、数字を信用して、みんな苦労したり笑ったりしてるのか、というそっちである。そういうことが知りたくて地域通貨に関わったりしたこともあったし、MMTの本も読んでみたけど根源的なお金の謎はわからないままだ。今こうしてメモを書きながら聞こえる都市のノイズもほぼ全てがお金のために誰かが働いている音だ。
生活保護の高齢者単身を調べてみると65000〜80000円。これでは暮らしていけない。お金を乞われる機会はこれから増えてくるのだろうか。

都会ではいろいろな用事があり、こういう小事件があってもすぐに忘れてしまうけれど、わたしは地方都市の郊外と仕事場を往復する単調な生活。
その人は詐欺であったのかもしれないが知る由はなく、無視をしてもあとでやっぱりお金を渡せばよかったと思うだろう。
結局は罪悪感がわずかに軽減された一日をワンコインで買った、という発想で、わたしはいい人じゃない。

10/26/2020

Sans title


カスパールで

おそるおそるドアを開けて、入ってくるひとが、だんだんその場に馴染んでいくのをながめるのは楽しい。

初対面のひと、偶然居合わせた友人と話すひと。

真剣に絵を見るひと(絵をいろんな壁に掛け替える)。

ご近所話をするひと。お茶を飲み飲み遠くを見つめるひと。本を開くひと。

連れられてきたちいさな子が実にくりくりしていて、自分で食べようと思った板チョコをあげた。自分が食べるのもいいけどその子が食べるのがもっといいなあと思ったからだ。

尊敬する画家や写真家がいっぺんに来て戸惑った。

お店の外からみたらなにも見えないけど、その内側では劇場のように、目に見えない素敵なことがいろいろあって力をもらえた嬉しい二日間だった。

10/25/2020

25. Octobre



あるとき、広島のギャラリーで絵を展示していたら、ふらっと入ってきた見知らぬひとがわたしの絵をみてこう言った。

「あんた、もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」

わたしは即座に理解した。このひとのいうアートみたいな絵とは、多分抽象画のことなんだろう、と。

「抽象」…取っつきどころがない。何か模様のような、でもそれは芸術って言われているし、そういうのって、理解できない。
それを=アートみたいな、という。 もやもや…世間ではそういう捉えられ方ではないだろうか。

わたしもまたそうで、絵を仕事にし始めたあともそういう認識だった。
パウル・クレーもベン・ニコルソンも好きだったが、それは結局は高尚な模様みたいなものなのであろうと、そのような理解に過ぎなかった。その奥に何かあるのか?という気配は感じつつ。
その解釈が大きく変化したのはジョルジョ・モランディの絵を知ってからである。でもモランディについてはいまは書かない。

抽象画に一見似ているものにフォークアートがある。
フォークアートの紋様は、例えば漢字の起源のようにデフォルメされた、呪術的な意味が込められていたり、さまざまな魔から身を護るよう、祈りの気持ちを込めるという目的のリピート作業が形作るものと言ってよいだろう。それらはどれも深く、美しい。

一方、美術館にかけられた抽象画は個人の闘いの痕跡が醜く、生々しい。
一見美しいクレーの絵も間近で観たらとてもエッジが立っている。ピカソもまた乱暴に描いているのではなく、そこを強く意識している。ピカソの友人、ジョルジュ・ブラックの作品は、岡本太郎が批判していたように、少し趣味が良くて作品化に気持ちが傾いているものが多いかも。しかし総じてフォークアートと大きく違うのは、心地よさを拒絶するような痛ましさがどこかに必ずあるということで、(アートで生きのびていかなくてはいけないという作家の狡猾さ、かっこ悪さも含めて)そこが魅力になっている。その視点でみた場合、制作者としては狙わない限りはフィニッシュが苛烈なほどいい。えもいわれぬパッションが絵に記録されるからである。(わたしはまだそこまで行けていないが)
ていねいな暮らしの真逆。支配されない。


美術の抽象画を観て顔がひきつり、フォークアートの名品を観て顔が綻ぶ。

どうしてもそうなってしまうので、いま、人気をえやすいのはフォークアートの方に分がある。抽象を描くなら自分を一種のフォークアーティストと見立て、あるいは自己洗脳して描いた方が良いのだろうと、少しずるい考えが浮かぶ。そしてつい、そのように制作するような勇気しか持てなくなり、あまり深く考えることなく過ごしてしまう。

有元利夫を元祖として、この線でアプローチをするひとは多い。そうなってしまうのは、もしかしたら アートとフォークアートの区別を作家自身が深く考えず、混同してしまっているからではないだろうか。
わたしがまたそうだったからである。でも、ある時期から、そこにはやっぱり自分がいないのかもしれないなあ、と気づいた。なぜなら自分はフォークアートや民藝の厳しい反復のある手仕事の時を、あるいは信仰の時を結局は生きていないからだ。
ファインアートなのに、フォークアート風に作るということは、実際は祈りはないのに、何か祈っているような雰囲気で現実を欺いてしまうことになってしまうのではないだろうか。

まあ、なにが言いたいかわからなくなってしまったが、同じ抽象表現でも混同しがちなフォークアートとファインアートは成り立ち方が真逆というほど違うということだ。わたし自身もつい混同してしまうのだが、分けてみないといけない。

わたしは結局は自分は個人にすぎないのだと思い知ったので、集合意識の美は求めず、フォークではない方に行きたい。そっちの方がエゴがあって、怒りがあって、自分がいてもいい、遊べるスペースが存分にあって面白そうなのである。 そして何より「今」がある。

そこで、先ほどの通りすがりのひとの言葉が別の深い意味を持ってたちのぼってくる。

「もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」