7/19/2018

なかた美術館で21日にランテルナムジカ


Lanternamuzica まもなく21日の土曜日。
場所は初めての尾道。
マエストロ・トウヤマさんのホームなのでアットホームなライブになるだろうか。
フライヤーのビジュアルは三田村亮さんの写真をさささっとコラージュさせていただいた。
はじめての「なかた美術館」。
開演は昼下がり14時から。

今リンク先をチェックしたらお客さんに豪華なおまけが…。すごい。

7/16/2018

7/15/2018

15.Juiy

物語と絵。
絵本を描くとき、そのどちらにもとらわれてはいけないような難しさがある。

絵本を手にしてくれるであろう誰かに今自分が確かに魅了されている「それ」を伝えたいけれど伝える方法は見えて来ず、うまく説明出来ないけれどある種の勇気を絞り出さないとそれ以前に逆戻りしてしまい結局「それ」がどういうものなのかも心もとなくなっている。「それ」はどういう手触りなのか、は仕事を進めないとフォーカスできない。

とくに作と絵を両方となると僕の場合はもはや絵の中でキャンプしたり舟を漕ぐなどしてひとつひとつ木の実を拾うように絵のその先と言葉を発見するしかない。
自分の無意識なんてたかが知れている。でも…

それで、この前の絵本『ぼくとたいようのふね』が出てから、ひと月になるので、ゆっくり自分でもめくってみたら、そうやって絵の中をさまよった記憶がやけに鮮明によみがえってきて驚いた。絵本の中の一場面の「あのページの絵を描きたい」という気持ちで絵本をふくらませて作ることは多いけれど、この絵本は欲張りにも、どの場面も潜り込みたい(描きたい)場面ばかりだった。そのせいだろうか。

先日、本屋さんに見に行ったらちゃんと目立つところに並べてくれていた。
とても嬉しい。
それでもう一つ嬉しいことがあって、隣には安野光雅さんの新しい『旅の絵本』(スイス編)があった。
僕の子ども時代、リアルタイムに刊行される…それを親が買って来てくれる…『旅の絵本』シリーズをめくってばかりの日々だったので、絵本というものは言葉のないものだと思っていたくらいだ。数年前に日本編が出た時に『旅の絵本』シリーズはこれで完結かなあと思ってしまっていたので新作のスイス編が出てるのを目にして文字通り鳥肌が立ってしまった。
安野さんのタッチがここに来てまた進化していて凄くかっこいい。

その隣にはみやざきひろかずさんの「ほんのにわ」という絵本があって、美麗な水彩の表紙に興味をひかれてめくってみたら職人的に仕立てられた絵本で、ちょっと昔の絵本に濃厚にあった気がするけれど今は失われてるよなあと感じていた憧れの品格が漂っていた。お話もすばらしかった。

たまには本屋さんに行かなくては。

それで、調子に乗って僕はまた新しい絵本を作っている。
次のが出来上がるのはいつになるのかわからないけど頑張って行こう。

7/13/2018

13. july








15日発売の雑誌coyoteにて挿絵を描かせていただいた。

特集は「一瞬の山 永遠の山」。
「山の学校」案内人・執筆は屋久島の田平拓也さん。
山の学校の子どもたちと、屋久島の自然のことならなんでも知っている田平せんせい。
鉛筆でぐりぐりと描いた。
coyoteの絵の仕事はとても久しぶり。

7/12/2018

12. July

心配のメールを多くいただき、かえって申し訳なく思うこのころ。
映像のインパクトも大きいけれどこちらは本当に大丈夫なので、ご心配なきよう。

でも、報道される首相周辺の政治家たちの行為に腹がたち、頭の血管が切れそう。
なので以下の事を「鎮静剤」代わりにメモしておこうと思った。



震災と言えば、ボランティア、メッセージ、送金などが「偽善」であるとかないとかがいつも話題になる。
被災者と繫がろうとする気持ちは被災者に対しての奇妙な逆甘えのような面があり、自己満足の面もあるのだから、つい僕も結局冷めた気持ちになってしまう。
でも被災者と繫がろうとする気持ちはやはり、人の心にそなわった助け合いの本能のようなものでもある。

声掛けやボランティアや送金は決して「偽善ではない」。
なぜ急に(いつも冷めてしまう?僕が)そう思ったのかというと、今回反対に、その思いを際立たせる、これは間違いなく「偽善」だな、と思うことが起こってしまったからである。
それこそは今この国の政治家たちがやっている行為である。

自身のブランド・イメージを落とさないためのアリバイ作りに熱心なこの状態。
あのみっともない初動の遅れという失態が世に知れ渡ってしまった後にマスメディアの前であのような「やってるふり」をしている醜さはもう見ていられない。

それとて、やらないよりは役にたつので良いのではないのか、という意見もあるかもしれないが、そもそもそのような態度で政治をやられると次の時にまた人が余計に死んでしまうのである。

今回は一連のそういう出来事のおかげで偽善という言葉の自分なりの定義が更新された。
だから自分はこれからはもう少し素直な気持ちで行動できたらと思う。

政治家のみなさん、気づかせてくれてありがとう。

7/07/2018

7. July



Lanternamuzicaのよく間違えるzとs cとk。

広島在住ということで大雨の心配の言葉をいただいた。
こちらは大丈夫。
ただ昨日の移動で使ったバスが通った道。
後で報道をチェックするとその晩に川に流されて消えていた。ぞっ。
道がどれもないので東からの荷はしばらく届かない。
宅急便が使えないとなると困るな。

7/01/2018

7月のランテルナムジカ





7月。

ランテルナムジカのライブがまた近づいてきた。
せとうちで2カ所 (倉敷と尾道)。

でも倉敷のライブは売り切れになってしまった。

Lanternamuzica



ブログの掲載順番を考えると難しく思ってしまってまだ載せられていないけど(モウスグノセル)
以下の公演も決まっている。


9/15(sat) nicolas 「不注意が働いて」    san-cha, tokyo

9/16(sun) shozo音楽室 「The lantern man’s song」      kuroiso,  tochigi

9/30(sun)えびの市文化センター         ebino, miyazaki


6/30/2018

30. June


今年の前半は阿蘇や松本に行ってきれいな泉を見た。
ああ、泉の傍に住みたいなあ。
と思うけど、こうしてそこから遠くにいるのも悪くない。

もし、自分の心の奥に泉がこんこんと湧いていたら、といつも妄想する。
僕は草むらをかきわけて毎日そこまで行ってその泉の水を汲むような感じで絵を描きたい。
冷たくて澄んだ水。
本橋成一さんの映画の「アレクセイと泉」で描かれていたように遠い過去と繫がっている水。
出来るならそうして描きあげた絵を誰かに見ていただきたい。

だれもが自分こそはおいしい泉の水が飲みたいと願いながら他人にはこっそりと水道の水をペットボトルに詰めて売りつけているというような、そういう世の中になってしまったのは何故なんだろうと考えている。
僕は何となくどうしてなのかわかるような気がする。
とても絵を描くことにも関係が深い。
でも今ここには書かないでおこうと思う。

ところで、目の前に見える風景というのは考えてみたら過去の運動の結果がかたちになったものなのではないか。だから過去がこうして作りあげた風景というのはひとつの亡骸のようなものと言えるかもしれない。
亡骸の山がひとつの不思議と美しい景色を作り上げる。
それはただ安易にエンジョイしてはいけない感じがしないか。
その、目の前の景色というものは。

だから僕は世界を楽しむその前にためらいのような感覚が欲しいと思っている。
シャッターを押す前にいいんだろうか。と自分の心に聞くような。
ページをめくるまえにいいんだろうか。
そしてもちろん、絵を描きすすめながらもそうする。
そういう感じだ。
ためらいがあるほうが案外思わぬ所にジャンプ出来る。かも。



6/12/2018

「ぼくとたいようのふね」


「ぼくとたいようのふね」
2018 BL出版 1500yen+tax

新しい絵本はふねの本。
久しぶりにストーリーも書いた。

真夜中に始まるという点では「よるのむこう(2013)」と兄弟のような絵本。
この表紙の男の子の持ってるランタン風の舟。
これが何の説明もなく登場しているという。
この舟は出雲の郷土玩具のランタン舟がヒントなんだけど
男の子が町の祭りか何かで買って来たんだろうね。

と、他人事のように書いているけど物語の登場人物というものはもう絵本の中で勝手に行動するもの。そして物語の周りには無数の物語が当然のようにあって、それを感じさせる絵本をこれからは意識的に作りたいと思った。

木靴のような舟の形体は運河なんかで見られるナローボート。この形が好きで木の立体作品として舟を展示したことがあった。それを見てくれた編集の筒井さんが舟の絵本をつくりませんかーって。
いいよねーと言っておきながらやっぱり3年くらいかかっちゃった。
ごめんなさい。

表紙にあしらってくれたデザイナーの椎名麻美さんの書体が可愛い。
編集は上述の通り筒井大介さん。

今回はおはなしの終わり方がちょっと気に入ってる。

ぜひよろしく。

6/08/2018

8.june

このころ考えていたことは、絵を描く人の糧について。
(糧という言葉はちょっと素敵だなと思っている。宮沢賢治のおかげだろうか。カテ。音がきれい。)
作品の発表の後の世間の反応とか、お金とか、絵を描くことの到達点にはいろんな目的があるだろうけど、それは果たして到達点だろうか。
そしてそれは糧になりうるのだろうか。
僕は違うと思う。
絵を描く人の糧とはまさに絵が描けるんだぞーというそのこと自体だ。
目的地は中継地に接続される。
その無限ループのような回路がぐるぐると絵に力を与えた。

このインスタグラム時代であれ、お金ではない、評価の数ではない、と時にはムリして強がって見せることも自分に言い聞かせる意味でも必要ではないか。
青い画学生の発言そのものでごめんなさい。

などと難しい顔をしてあれこれ宿題のカットを書いていると新しい絵本が届いた。
「ぼくとたいようのふね」
この絵本について近々書こうと思う。(今日じゃないんかい)