描きかけの絵。
10/31/2020
10/30/2020
30.Octobre
作業場には電車で通っている。
秋枯れの無花果畑をみたくて、まわり道を歩き、いつもと違う電停に着いた。
電車を待ちながら本を読んでいると、知らないおじいさんがわたしの前に立ち止まり、すっと古びた紙を差し出した。
「言葉も喋れないし、生活保護を受けて暮らしているのでお金を貸してください」と書いてある。
価格設定がちょっと高くて2000円から3000円。
気まずい空気が漂う。あいにくか幸運か、手持ちのお札はない。
手にとってなにも言わず立ち去るおじいさん。
10/26/2020
Sans title
カスパールで
おそるおそるドアを開けて、入ってくるひとが、だんだんその場に馴染んでいくのをながめるのは楽しい。
初対面のひと、偶然居合わせた友人と話すひと。
真剣に絵を見るひと(絵をいろんな壁に掛け替える)。
ご近所話をするひと。お茶を飲み飲み遠くを見つめるひと。本を開くひと。
連れられてきたちいさな子が実にくりくりしていて、自分で食べようと思った板チョコをあげた。自分が食べるのもいいけどその子が食べるのがもっといいなあと思ったからだ。
尊敬する画家や写真家がいっぺんに来て戸惑った。
お店の外からみたらなにも見えないけど、その内側では劇場のように、目に見えない素敵なことがいろいろあって力をもらえた嬉しい二日間だった。
10/25/2020
25. Octobre
「あんた、もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」
わたしは即座に理解した。このひとのいうアートみたいな絵とは、多分抽象画のことなんだろう、と。
「抽象」…取っつきどころがない。何か模様のような、でもそれは芸術って言われているし、そういうのって、理解できない。
わたしもまたそうで、絵を仕事にし始めたあともそういう認識だった。
抽象画に一見似ているものにフォークアートがある。
フォークアートの紋様は、例えば漢字の起源のようにデフォルメされた、呪術的な意味が込められていたり、さまざまな魔から身を護るよう、祈りの気持ちを込めるという目的のリピート作業が形作るものと言ってよいだろう。それらはどれも深く、美しい。
一方、美術館にかけられた抽象画は個人の闘いの痕跡が醜く、生々しい。
美術の抽象画を観て顔がひきつり、フォークアートの名品を観て顔が綻ぶ。
どうしてもそうなってしまうので、いま、人気をえやすいのはフォークアートの方に分がある。抽象を描くなら自分を一種のフォークアーティストと見立て、あるいは自己洗脳して描いた方が良いのだろうと、少しずるい考えが浮かぶ。そしてつい、そのように制作するような勇気しか持てなくなり、あまり深く考えることなく過ごしてしまう。
わたしがまたそうだったからである。でも、ある時期から、そこにはやっぱり自分がいないのかもしれないなあ、と気づいた。なぜなら自分はフォークアートや民藝の厳しい反復のある手仕事の時を、あるいは信仰の時を結局は生きていないからだ。
ファインアートなのに、フォークアート風に作るということは、実際は祈りはないのに、何か祈っているような雰囲気で現実を欺いてしまうことになってしまうのではないだろうか。
そこで、先ほどの通りすがりのひとの言葉が別の深い意味を持ってたちのぼってくる。
「もっとアートみたいなのを描きゃあーええのに」
10/24/2020
24. Octobre
抽象表現
たくさんの空想上の風景を描きながらも関心は印象の新鮮味だった。
それならもっと印象と直結した抽象というものに素直に向かってもいいのではないか、という気持ちが芽生えてきた。
なぜなら今日の気分、朝の気分、水の味、聴こえる音、というのは、具体的なかたちのあるモノの映像が始めから心に起こるのではなくて、そこに視えるものはまず、仄かな色面であったり、ゆらぎのあるパターンであったりするからだ。
またそれ以上に大切なのは、絵はそれ自体がそのような印象を作り出せるということだ。
絵が、みるひとにどこにもない、そのひとだけの新しい印象を想起させるように作用する。
その効力(と罪深さ)を思うとき、抽象といわれる表現ならではの表現をつくることができるかも、という手応えをつかめるような気がする。
10/23/2020
23. Octobre
洋梨を描いた。
先日の雑誌の果物画のコメントで、果物の糖(フルクトース)はからだに悪い一面もあるかも、というようなことを書いたけれど、その後の勉強で、早速訂正で、むしろからだに良いという説を採ることにした。
10/19/2020
Nyabo Ssebo 「新鮮な郷愁」@熱海未来音楽祭2020
10月23日(金)ライブ
(熱海駅より徒歩15分))
10/18/2020
19. Octobre
葉山のブックショップ カスパールでの個展がはじまった。
絵を楽しんでもらうというより、ぱっと見「楽しめない」。
10/16/2020
illustration誌でnakaban+植田真 特集。
編集長のTさんから特集のお話をいただいたときは驚いた。
うん、無理だよ。と思った。
わたしは自分の今までの仕事の全容を把握していない。
「どんな仕事がありますか?」
と、問われたときに整理したのをお見せできる状態ではない。
「Tさんが広島に来てくださるなら…」、と気弱にお返事差し上げたら本当にいらっしゃることになってしまった。手にはバッチリわたしの過去の仕事の領域別の項目が、さすが。わたしより把握しているかも。
インタビューのような雑談のようなたのしい数時間だった。トムズボックスの過去のほとんどの展示や本ブログの隅々までみていただいていることに驚いた。Tさんのページへの熱量。すごかった。
さらに、わたしにとっての恩人の方々が文章を寄せてくださることになり、恐縮した。ありがたいなあと思った。一人で仕事してるんじゃないんだよなあ。当たり前だけど。本当に時間旅行だ。
とても盛り沢山の内容で先日、雑誌が仕上がって手元に送っていただいた。
植田さんとクロスしたページも、もちろんある。手紙のやりとりをした。記事になるの意識するはずが、いつも通りのものを送った。送っていただいた手紙はすごくいいものをもらってしまったのだけど(しかも実用アイテム)、誌面をご覧いただけたら。(宣伝)
植田さんのコーナー、彼のインタビューを今読んでいて深い感動の中にいる…。絵もやっぱりとてもかっこいい。こうして雑誌のかたちでまとまった植田さんの作品を眺めていると、植田さんは寡作な作曲家の曲のようにタッチをゆっくりと増やしていっているように感じた。そのそれぞれは「再演」されるたびに深くなっていくのだろうなあ。
「読むことの風」
saudade booksの新刊はアサノタカオさんの随筆集。
個展の制作が終わったら、読もうと思っていた。
端正な装丁に負けない眼差しが言葉から伝わってくる。
10/12/2020
12.Octobre
-nakaban expo-
Dissonance is unknown harmony
2020.10.17(sat) - 11.1(sun)
closed on Thu. Fri.
open:11:00-17:00
10/11/2020
11.Octobre
病気を他人にうつさないためのマスク着用という「優しさ」。
しかし、政治も医学も間違えることが多いというのは歴史が示すとおり。
例えば「戦争」は、そうやって「みんな耐えて我慢してるんだから」というルールと同調圧力の中ではじまったのではないのか。
マスクに慣れすぎてしまって、一人で歩いている時も着用している人がいらっしゃる。
ただし、主流の報道は残念なことに 1.ワクチン販売ビジネス 2.管理社会化 この二つに今は舵を切っているので「人の体力を削る方向」へと強いバイアスがかかっていることは頭に入れておいた方がいいだろうと思う。
わたしにとって、絵も本も音楽も食べ物も大切なものだが、レベル違いに、ゴマつぶと宇宙レベルに、スバ抜けて大切な、なくてはならないものは「呼吸」だ。
急性の警告症状としては、頭痛、眠気、めまい、集中力の低下、反応時間の低下、認知システムの反応などがあります。 しかし、慢性的な酸素欠乏になると、それらの症状はすべて消えてしまいます。しかし、あなたの効率は損なわれたままで、脳内の酸素不足は進行し続けます。
神経変性疾患は、発症するまでに数年から数十年かかることがわかっています。今日、電話番号を忘れてしまったとしても、脳の故障は20年、30年前にはすでに始まっているはずです。
マスクをつけて自分の吐いた空気を再呼吸することに慣れてきたと思っている間に、酸素欠乏が続くと脳内の変性プロセスが増幅されていくのです。
第二の問題は、脳内の神経細胞が正常に分裂できなくなることです。ですから、もし政府がマスクを外して、数ヶ月後に自由に酸素を吸えるようにしたとしても、失われた神経細胞はもう再生されません。消えたものは消えてしまうのです。
私はマスクをしていない、考えるためには脳が必要だ。患者さんを相手にするときには、炭酸ガスによる麻酔ではなく、頭をクリアにしていたいのです。
酸素欠乏はすべての脳にとって危険なので、根拠のない医学的免除はありません。ウイルスから身を守るために絶対に効果のないマスクをつけたいかどうかは、すべての人間の自由な判断でなければなりません。
子供や思春期の子供にとってマスクは絶対にダメなのです。子供や思春期の子供たちは、非常に活発で適応性の高い免疫システムを持っており、地球の微生物との絶え間ない相互作用を必要としています。彼らの脳もまた、学ぶべきことがたくさんあるため、信じられないほど活発に活動しています。子供の脳、つまり若者の脳は酸素を渇望しています。新陳代謝が活発な器官であればあるほど、より多くの酸素を必要とします。子供や青年では、すべての器官が代謝的に活動しています。
子供や思春期の脳から酸素を奪ったり、何らかの方法で酸素を制限したりすることは、健康を害するだけでなく、絶対に犯罪です。酸素欠乏は脳の発達を阻害し、その結果として起こったダメージは元に戻すことができません。
子供は学ぶために脳を必要とし、脳は機能するために酸素を必要とします。そのための臨床研究は必要ありません。これは単純で議論の余地のない生理学です。意識的に意図的に酸素欠乏を誘発することは、絶対的に意図的な健康被害であり、絶対的な医学的禁忌です。
医学における絶対的な医学的禁忌とは、この薬、この治療法、この方法や手段は使用すべきではないし、使用することも許されていないことを意味します。全人口に絶対的医学的禁忌の使用を強制するには、そのための明確で重大な理由が必要であり、その理由を学際的かつ独立した権限のある機関に提示し、検証と認可を受けなければならない。
10年後に認知症が指数関数的に増加し、若い世代が神が与えた潜在能力を発揮できなくなった時、「マスクは必要なかった」と言っても何の役にも立たないでしょう。
獣医師、ソフトウェア販売業者、ビジネスマン、電気自動車メーカー、物理学者が、国民全体の健康に関することをどうやって決めることができるのでしょうか?どうか、親愛なる同僚の皆さん、私たちは皆、目を覚まさなければなりません。
私は、酸素欠乏が脳にどれほどのダメージを与えるかを知っています。循環器科医は、心臓にどれほどのダメージを与えるかを知っています。酸素欠乏はあらゆる臓器にダメージを与えます。
私たちの健康部門、健康保険、医師会はどこにいるのでしょうか?ロックダウンに猛烈に反対し、ロックダウンを止め、最初から止めるのが彼らの義務だったはずです。
なぜ医師会は、人に免罪符を与える医師に罰則を与えるのか。本人や医師は、酸素欠乏が人に害を及ぼすことを本気で証明しなければならないのでしょうか?私たちの医師や医師会は、どんな医療を代表しているのでしょうか?
この犯罪の責任は誰にあるのか?強制執行しようとする者?それを放置して、それに付き合っている者、それを防がない者?
マスクのことでも ウイルスのことでもなく あなたの健康のことでもない それ以上のことをしている。私は参加していません。怖くはありません。
気づいたでしょう、彼らはすでに私たちの呼吸する空気を奪っています。
10/06/2020
10/05/2020
5. Octobre
「物質と力をふたつの異なることばに分けることはできない。
昔の人の方がものを見ているではないか、と思うことがある。