2017年9月21日木曜日

水彩画のワイン



「翼の王国」のカリフォルニア・ワインの連載記事のイラストレーションは珍しく水彩画。飛行機はオフラインだから「翼の王国」の記事はゆっくり読んでもらえるのだろう。記事そのものも面白いのは当然として。
会う人から飛行機で「絵をみたよ」とよく言われる。
オフラインであることのありがたみを考える。
それがこんなにも価値になるとは。
その見えにくい価値ある時間はさみしさや自身の弱さに勝たなければ手に入らない。











2017年9月19日火曜日

「その絵をください」

ライブで、ワークショップの後での場面で僕が描いた絵をくださいと言われることがある。今回もそういうことがあって。
通常ならお断りすることが多い。

けれど僕はたいていそういう場では役目が終わって肩の荷がおりてホッとしてるのかヘラヘラしている。おまけにライブペイントは楽しかったしワークショップもまた充実していたりして、ほっとする時間。

一番油断してる時で、そのタイミングで「絵をください」。

そう言われたとき、本当にその人を感心してしまう。そして困ってしまう。
僕は少し困ったそぶりをする。

相手は(たいてい女性)は多分、僕の困惑を察する。

でもわざとそれに気づかないふりをしたりして。
さあ 画家さん、絵をくれるのくれないの という感じで。

女の人って恐ろしい。

間に耐えられなくなって、結局仕方なく絵を差し出した。
気が弱いのである。

僕はもう敗北していた。


でも、最後の抵抗でサインはしなかった。



僕はそんなことがあった旅の帰り道でいつも後悔する。
絵をただであげたりもらったりすることには良いことがひとつもないからね。

そいで、そのときの話。
それを見たもう一人の人に絵をねだられたが(そりゃそうだよな)お断りした。



でも彼女の方がある意味幸運である。


なぜ彼女の方が幸運なのかは書くのはとても野暮だから書かない。


そんな事を書くといままで僕に絵をねだってタダで絵をもらった人は気を悪くされるかもしれない。

今までのことは気にしないでほしい。その絵はもしよかったら飾ってほしい。
でもこれからはそういうのは無しにさせてもらおうかと思う。

ついでにいうと、絵本にサインをするときに絵を添えて描くのもあんまり好きじゃない。
あれこそは絵の安売りだと思う。

あの風習、誰が始めたのかな。
さっさっと絵を描くのが上手い手塚先生かな。
色紙にことばを一筆して絵も描いてみせた昔のひとかしら。

まあいいや。


絵をただでさしあげてしまったこと。

このことにくよくよすることによって、絵の仕事という幻想にしがみつく自分の滑稽さも同時に目の当たりにするのである。

なんともあちらこちらと情けない。



これからは、無しだぞ。



2017年9月15日金曜日

sep 15

福岡。明日は線をひくワークショップ。

2017年9月2日土曜日

this summer



kumamoto


tokyo



hiroshima


kobe 
kyoto




fukuoka



乗り物に乗れてさえいれば映画館は必要なかった。

あちらこちらと移動に明けくれて それに負けじと制作も。

自分が二人いるようなおかしな気分だった。
ちょっと日焼けしてしまった。
みなさんも良い秋の始まりを。

2017年8月27日日曜日

aug 27

油絵を描いている。

本の挿絵の仕事なんだけど、とても自由にやらせてもらえている。

クレープのように積み重なっていく絵。



油絵は絵の具の塗り重ね作業の連続。でも不思議と飽きないのは何故だろう。

その飽きない理由のひとつにこういうことがある。

ひとつ色を塗り重ねるとその下に隠れた色の影響で見え方の印象が大いに違ってくる面白さがあるということ。

一見の平面上ではほぼ同じ見た目なのに心で感じる所は大きく違う。


それは思いっきりミクロの視点になれば結局は原子の構造がすかすかであるためである。
光線は隠れた色の層にもわずかではあるが確実に届いて反射している。

そう説明しておきながらそれだけではないような気もする。

メロンの絵を塗りつぶしてみかんの絵をかけばそれを見るひとはメロン風味のみかんの味を感じる。…かどうかは判らないがそれに似たことはあるだろう。人の無意識はおそろしい。

そのようなことがあるので油絵というものは特に人の無意識に働きかける絵なのだと思う。
見る人が気づいても気づかなくてもそれでよい。

描くほうの人としては全部みられているというか、でも誰に?
誰かに何かを試されるような全くわけのわからない状態になる。

だから僕はそれが怖いような気がしてそろそろと一つ一つ丁寧に塗って行く。

でも結局はそれは逆効果で立ち止まってその絵を破いてしまう。
絵というものでは丁寧であるということが必ずしも良くなくて、むしろ悪い。
これをしていてもあんまりいい絵にならないのだ。何故か。

ひとはこの丁寧であるということに安住してしまうからだ。
それは絵にいちばん大切なパッションを摩耗させる。

そして丁寧な作品を作ってしまうことによってその丁寧さを誰かに押し付けてしまうことになってしまうからだ。


ジャズがスウィングをしなければ意味が無いのと同様、絵を描く時にはこの夏の暑ささえも丸呑みして涼しくいられるようなパッションがなくてはする意味が無い。
(ただこのようなことを書く言い訳として、丁寧であろうとすることにパッションが発生し、持続するならばそれはすごいことだと思う)


ではそのパッションが欲しくなる。

それはどこにあるのか。
どこに行ったら買えるのか。笑

ドアの外に飛び出しても世界のどこにも売ってないし落ちて無い。

どうやら絵を描くときのストロークの一つ一つからちいさなパッションを得て打ち返すという方法しかないらしい。音楽だったらタッチだし、料理だったら食材から立ち上る香り。

なんだかとてもミニマルで地味だ。

けれどもそこは根拠の無い期待が生まれて来ては消える場所だ。

とても「めくるめいて」いてそれを丘のような所から面白く眺めるのが自分なのだ。


結果へのもくろみはいつしか忘れてしまう。

2017年8月25日金曜日

ことばの生まれる景色 Ⅱ



東京・荻窪の本屋さんTitleで今年2度目の展覧会。
今回もTitleの辻山さんが選書された本に自由な解釈で絵を描かせていただいた。
読んで描く。夏休みの課題図書といった趣で楽しい時間だった。
ぜひどうぞ。



nakaban × Title exhibition 「ことばの生まれる景色 Ⅱ」
8月26日(土)~9月4日(月) 12:00~21:00
会場:Title
〒167-0034 東京都杉並区桃井1-5-2

一冊の本には、その作家の体験と結びつき、そこからしか生まれてこなかったことばがある。そんなことばが生まれたその源へと遡り、そこで見える景色について描かれた絵。

Title・辻山良雄が十数冊の本とその中の一節を選び、nakabanがそこから絵を描いた。もう一つの、ことばの景色。ふたたび。

展示作品(抜粋) J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』/ ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』/ カフカ『城』 / フォークナー『八月の光』 / 宮沢賢治『注文の多い料理店』 / 村上春樹『1973年のピンボール』 / マーシャ・ワイズ・ブラウン『おやすみなさいおつきさま』……and more



2017年8月19日土曜日

aug 19

熊本のさかむらにて。
中神さんのピッチャーとラファエルのダガー筆。