2018年6月30日土曜日

30. June


今年の前半は阿蘇や松本に行ってきれいな泉を見た。
ああ、泉の傍に住みたいなあ。
と思うけど、こうしてそこから遠くにいるのも悪くない。

もし、自分の心の奥に泉がこんこんと湧いていたら、といつも妄想する。
僕は草むらをかきわけて毎日そこまで行ってその泉の水を汲むような感じで絵を描きたい。
冷たくて澄んだ水。
本橋成一さんの映画の「アレクセイと泉」で描かれていたように遠い過去と繫がっている水。
出来るならそうして描きあげた絵を誰かに見ていただきたい。

だれもが自分こそはおいしい泉の水が飲みたいと願いながら他人にはこっそりと水道の水をペットボトルに詰めて売りつけているというような、そういう世の中になってしまったのは何故なんだろうと考えている。
僕は何となくどうしてなのかわかるような気がする。
とても絵を描くことにも関係が深い。
でも今ここには書かないでおこうと思う。

ところで、目の前に見える風景というのは考えてみたら過去の運動の結果がかたちになったものなのではないか。だから過去がこうして作りあげた風景というのはひとつの亡骸のようなものと言えるかもしれない。
亡骸の山がひとつの不思議と美しい景色を作り上げる。
それはただ安易にエンジョイしてはいけない感じがしないか。
その、目の前の景色というものは。

だから僕は世界を楽しむその前にためらいのような感覚が欲しいと思っている。
シャッターを押す前にいいんだろうか。と自分の心に聞くような。
ページをめくるまえにいいんだろうか。
そしてもちろん、絵を描きすすめながらもそうする。
そういう感じだ。
ためらいがあるほうが案外思わぬ所にジャンプ出来る。かも。



2018年6月12日火曜日

「ぼくとたいようのふね」


「ぼくとたいようのふね」
2018 BL出版 1500yen+tax

新しい絵本はふねの本。
久しぶりにストーリーも書いた。

真夜中に始まるという点では「よるのむこう(2013)」と兄弟のような絵本。
この表紙の男の子の持ってるランタン風の舟。
これが何の説明もなく登場しているという。
この舟は出雲の郷土玩具のランタン舟がヒントなんだけど
男の子が町の祭りか何かで買って来たんだろうね。

と、他人事のように書いているけど物語の登場人物というものはもう絵本の中で勝手に行動するもの。そして物語の周りには無数の物語が当然のようにあって、それを感じさせる絵本をこれからは意識的に作りたいと思った。

木靴のような舟の形体は運河なんかで見られるナローボート。この形が好きで木の立体作品として舟を展示したことがあった。それを見てくれた編集の筒井さんが舟の絵本をつくりませんかーって。
いいよねーと言っておきながらやっぱり3年くらいかかっちゃった。
ごめんなさい。

表紙にあしらってくれたデザイナーの椎名麻美さんの書体が可愛い。
編集は上述の通り筒井大介さん。

今回はおはなしの終わり方がちょっと気に入ってる。

ぜひよろしく。

2018年6月8日金曜日

8.june

このころ考えていたことは、絵を描く人の糧について。
(糧という言葉はちょっと素敵だなと思っている。宮沢賢治のおかげだろうか。カテ。音がきれい。)
作品の発表の後の世間の反応とか、お金とか、絵を描くことの到達点にはいろんな目的があるだろうけど、それは果たして到達点だろうか。
そしてそれは糧になりうるのだろうか。
僕は違うと思う。
絵を描く人の糧とはまさに絵が描けるんだぞーというそのこと自体だ。
目的地は中継地に接続される。
その無限ループのような回路がぐるぐると絵に力を与えた。

このインスタグラム時代であれ、お金ではない、評価の数ではない、と時にはムリして強がって見せることも自分に言い聞かせる意味でも必要ではないか。
青い画学生の発言そのものでごめんなさい。

などと難しい顔をしてあれこれ宿題のカットを書いていると新しい絵本が届いた。
「ぼくとたいようのふね」
この絵本について近々書こうと思う。(今日じゃないんかい)