2015年6月29日月曜日

6/29


南の国の小さな町から。歩いて休んで絵を描く。

2015年6月25日木曜日

6/24

東京にて。

明日から南へ。
旅の先で何が待っているのだろう。
何が起こるのだろう。
行ってきます。

2015年6月20日土曜日

6/19


久しぶりにコップの絵を描く。
けびんさんのカメラがまわっていた。
彼らが去って行って、ふとできた絵を光に透かしてみる。
影にうつろいゆきながら顔料の粒子がぽつぽつと色づく。
そこに生まれる小さなくらやみ。
得られる映像は夢が振り向くよう。
絵を傍らに置いて、硝子のペーパーウェイトや貝殻、枝、乾いた果物、切れた電球をかざす。光を通さない石などもかざす。自分の手も。
かざすとき、ほんの少しだけ祈っているのだろうか。
それは自分にうたって聴かせる子守唄のような。
あらゆるものたちの呼吸が紡いだ物語を覗きこむような。






2015年6月13日土曜日

6/13

田園の中のこども園で。
眠って起きたらこんな秘密のコンサート。
明日。うまくいくかな。おやすみなさい。

2015年6月10日水曜日

6/10








今日は海辺でスケッチ。
瀬戸内の海と島と空を。あっという間に出来上がり。街へ。


2015年6月8日月曜日

6/7

子どもたちのスクールについて行って 初めての祝島。
貴重なびわをいただき、浜辺の散策。
夢の中のような路地裏。

のどかな島も対岸の原発の建設予定地からたったの4キロ。
港で船の待ち時間にコーヒーをいただきながら島の人と話した。
「島外の人はどうしたらいちばんいいですか?」と訊いて、
「まずは島に遊びに来てほしい」というのがその人の答えだった。
まずはその土地に行ってその空気を吸う。時間をすごし、景色を眺めてひとと話す。
当たり前のことながら、大切だなとそう思う。



2015年6月6日土曜日

チャルカのきつねラベルシール

お手伝いさせていただいているチャルカの「craft paper love」シリーズの新作です。

クラフトペーパーに印刷されたチャルカのオリジナル文具にラベルが加わりました。
狐の大きさがそれぞれ違うの、おわかりになりますでしょうか。

近きつね 中きつね 遠きつね
近きつね 中きつね 遠きつね
近きつね 中きつね 遠きつね
近きつね 中きつね 遠きつね
近きつね 中きつね 遠きつね

ラベルのラベル(笑)に記載されております通り以上全15枚入ってます。

このように大小のサイズの描き分けにより遠近を表現することを零点透視図法といいます。

恋文に、原稿に、挑戦状に、密書に、無味乾燥な事務通信にいろどりを。
きつね君ラベルを様々な用途に使って欲しいです。
CHARKHA店頭やお取り扱い店にて購入できます。

どうぞよろしくおねがい申し上げます。



2015年6月5日金曜日

6/5

過去の絵を探しているとぱらっと忘れていたような雨の絵が。今日は広島の町も雨。

2015年6月3日水曜日

6/3

雨の広島。
展覧会の初日と2日も無事終わり帰路に。
あの人この人に会えた。
来てくださりありがとうございました。
トムズボックスの土井さん。泊めてくれた妖怪の加藤さん、ありがとう。
東京に行ったのにリュックの中には大きな四国の石が入っている。不思議。

今年はもう展覧会はなく広島で静かに仕事をする。
でもいただいた仕事はたくさんで、ひとりわーわーいいながら。それもいいと思う。

トムズボックスのページに土井さんのコメントがあって読ませていただいた。
カラリストってなんだろうとわたしも思っていた。
けれどトムズボックスにあった茂田井武の旅の画帳の絵を見てそれを理解できた。それは鮮烈な色の世界で、現実の世界をより色みて絵を描くということかな、と。

薄い紫(モーヴ、すみれ色)はここ最近好きな色だ。理由はなく、しいていえば「夢のようだから」。でもそれは夢みて、ではなく色みて、だと思う。
しかしそれとて、他の色との関係性である。正直なところ、色というものはどうしていいか手に負えないもの。けれどこのころ少しつづ自分なりの正解に辿り着きそうな予感がしている。
すべては対象を見ることに答えがあり、絵の中の風景がどういう風に(結局はわたしにとって)なりたがっているかを思いながら。
旅をすることも大切。目の前のガラスコップにまでも30センチの旅をする。緑色だと思っていた筈の山肌が紫色だったり、仕事場のペンスタンドの影がオレンジ色だったり絵より現実世界の方があやうく、多彩なのだから。そしてその色彩は次のときには移り変わる。描き終わって額に入れられた絵も存在し始める。世界の中で、みる人の意識の中で呼吸して姿を変え続ける。

2015年6月1日月曜日

6/1

東京のとある駅の高架下の喫茶店です。
吉祥寺トムズボックスの展覧会。
毎回言ってますが展示、今までで一番気に入ってます。今日からです。
恥ずかしげもなく制作メモを。



わすれがたり / 岸辺

近づき、離れ、記憶をたどる。
日に一度、水のきわにたたずみ遠くをみるそのときのように。
忘却にあらがうかのように。
けれども、ふと思いは留まる。
本当は憶えてすらいないのではないか。何も。
憶えてすらいない。もっと言えば未だ出会っていない。
ならばその予感めいた微かなものを信じるしかないのではないか。
そうでなければ、わすれゆくことをみとめることすらできない。
未だ出会っていない朝のような心のありようでいられる筈もない。

それもまたあの岸辺の一部であるひとしずくの水に溶かれた顔料と白くさらされた樹林の果てである紙との出会いの、その滲みが予感させるような失敗と成功の垣根のなさ。
肩の斜め上に浮かんであるような、振り向いてもそれ見えはしないその予感。
そこには何もありはしないとわかっているのに歩く夜道を振り向き、欠けゆく月の相貌に驚き淋しく道を照らす街燈の立ち並びに目眩するようなその日々の小さな亀裂から垣間みえる、みえもしないくらいの微かなちかちかしたもの、頼りないもの。
目の前の風景に描いてしまう降り積もる無意味の、その頼りなさをだからこそ信じてみたい。
ここに勇壮な決意じみたものはあってはならないと知れ。誰にも甘えることもできないことを知れ。音も聴こえずここにひとりであると知れ。ひとりのうちのあらだった水面だけをしずめ澄ませるような、ただ岸辺に向かい佇み、眺めているような、それでもそれはけして叶わないような静かな喜びと嘆息とを繰り返すこと。
そう言ったことをここに記さずとも、わたしの知る人知らない人だれもが波のように繰り返して来たことを忘れないこと。