10/23/2015

10/15/2015

オリーヴの実

初めて収穫してみた。
ベランダの数個の鉢植えのオリーヴの木からこれだけ採れるなんて。
種類もばらばら。塩漬けに。

10/13/2015

10/13

仕事場へ急いでいるとふと視線を感じた。
振り向くと、ぽつぽつと咲いている秋の花。
これから寒い冬が来るというのになぜ今咲くのか。
花の色は特別な波長でこちらの目に飛び込んでくる。
「これは印刷では再現できないなー」と思う。
用事を思い出し慌ててその花から目を引き剥がす。

この頃になると空の色、コンクリートのグレー、錆びた手すりの色も美しい。
無花果の葉の色も。
秋の色彩は無限小の何処かへと収斂して行く。
その到達点は例えば真冬の窓の黒と白の境界である。
それに従い抗う色彩を眺めている。
木の葉に紅葉というプロセスがあるように、無機質な壁やガラスの窓もこうして色の様相を変えていくように見える。

何のことはない、と思った。
これらの色もみなすべて印刷では再現できないのだ。
その再現の不可能性は単にインクの性能の良し悪しの問題ではない。

「静物画」を描けば否応がなく気づいてしまうことがある。
それは制止していると思っていたモチーフも本当は絶えず動いている、ということ。
呼吸をしながら崩壊へと向かう、その道すがらの美がモノにはある。
あるいはそのものを渦巻き、取り囲む環境の変化もある。
そのモノはそのモノ以外でもある。

美は、その時、その場所という座標に、不思議な糸で結び付けられたものであり、それをどこかに持ち運ぶことはできない。
持ち帰り、後でゆっくりと楽しもう、という心は拒絶される。
当然iphoneで写真を撮っても駄目なのである。(それでも撮るけど)

自然の中のモノがあるべきところにあるような気がして、理由もなく「美しい」と感じてしまうのは、その辺りのことが理由なのではないか。
すなわち、持ち帰ることのできない、所有不可能なものこそが美しい。

書こうとしてたことと話が逸れそうになっている。
それゆえにわたしの外にあるモノの美は転写できないということだった。
印刷と書いたけど、もちろん絵でもそのことは当てはまる。
ならばどうすればいいのか。
それはどうしようもない。
絵と現実はイコールではない、というそれだけの当たり前なことだ。
諦める。ならばその後でどうするかという問いがあるだけ。

モノの発する息づかいは、読むことの叶わない言葉。
その言葉をわたしの呼吸で翻訳してみたくなる。
間違えてもいいから。の心で。
そのことが創作(つまり翻訳)のモチベーションへと繋がるのかもしれない。

秋の道の上で

10/03/2015

Outubro



10月。
どこまでも落ちていくような秋。
見上げる空は高くなるばかり。